東北大学経済学部 大学院経済学研究科

東北大学
創立 115 周年
総合大学 100 周年


東北大学経済学部
大学院経済学研究科

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東北大学大学院経済学研究科長・経済学部長 小田中 直樹
東北大学大学院経済学研究科長・
経済学部長

小田中 直樹

ご挨拶

Message

 東北大学に設置された法文学部に経済学講座が置かれて(1922年)、今年でちょうど一世紀となります。この間、経済学部としての分離独立(1949年)、大学院経済学研究科の設置(1953年)を経て、今日、東北大学経済学部・大学院経済学研究科は日本有数の経済学・経営学の研究教育組織となりました。
 とりわけ、21世紀に入ってからは、「サービス・データ科学研究センター」、「高齢経済社会研究センター」、「政策デザイン研究センター」など部局内共同研究組織の設置、国立大学経済学部では全国初の完全理系型入学試験制度(理系入試)の導入、5年間で学士号と修士号が取得できる「学部・大学院一貫教育プログラム」の設置、英語開講授業だけで修士号が取得できる大学院修士課程プログラム(GPEM)の設置など、様々な新機軸に挑んできました。また、本研究科の一貫をなす会計大学院は、全国の会計大学院のなかでも、公認会計士試験合格率ではトップクラスの成績を誇っているほか、本研究科の付属機関「地域イノベーション研究センター」は、地域経済を支える人材のリカレント教育の場として、全国的な注目を集めています。
 今後は、これら取組をさらに強化することにより、不確実性が高まりつつある21世紀経済社会を主導する研究と、「真の豊かさとはなにか」を考えぬく知的体力をそなえた指導的人材の育成を目指す教育をすすめてゆく所存です。

2022年6月

経済学部100年の歩み

History

1907

06

東北大学帝国大学創立

1922

08

法文学部(8講座)が設置され,経済学講座として発足。

1949

04

学制改革により法文学部から分離独立し,経済学部となった。

1953

05

大学院経済学研究科に経済学専攻(修士課程及び博士課程)を設置。

1976

04

経済学研究科に経営学専攻(博士課程)を設置。

2004

04

国立大学法人東北大学に改組。

2005

04

経済学研究科を改組し、経済経営学専攻(博士課程)、
会計専門職専攻[会計大学院](専門職学位課程)を設置。

2005

07

地域イノベーション研究センターの設置。

2011

04

震災復興研究センターの設置。

2013

04

サービス・データ科学研究センターの設置。

2014

04

高度グローバル人材コース
(GPEM※英語による外国人・日本人共修プログラムの設置。

2015

04

高齢経済社会研究センターの設置。

2018

04

学部・大学院一貫教育プログラム
(データ科学、高齢社会の地域公共経済政策、日本の経済・経営の開設。

2020

理系入試導入。

2022

04

政策デザイン研究センターの設置。

同窓生からの寄稿

Alumni

竹澤 秀樹

    

学部1986年卒 公益社団法人日本証券アナリスト協会 理事・事務局長(元日本銀行仙台支店長)

国立の総合大学ということ、さらには当時流行ったさとう宗幸「青葉城恋歌」に惹かれて東北大学経済学部を選びました。

在学時の思い出は尽きません。例えば、ゼミの指導教官だった芳賀半次郎先生がテキストに英書を指定していたこと。「これからは英語くらいできないと」いう話しを、英語に苦手意識のあった私は半信半疑で聞いていました。3年次で使ったのは『マクロエコノミクス』。既に世界で定評のあったテキストですが、和訳はまだありませんでした。幸い進度を気にせずに議論を尽くさせる指導でしたので、英語にトラウマを持つことなく済みました。

卒業後は日本銀行に就職。何年か後に海外留学の機会を得て米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のビジネススクールに進んだのですが、そこでは3年次のテキストの執筆者の一人ドーンブッシュ教授が教鞭をとっていました。満員の大教室でのその授業で、芳賀ゼミを感慨深く思い出したものです。

帰国後、海外駐在こそありませんでしたが、折に触れて英語を使う案件に関わりました。金融市場は国際的な連関を深めているので、海外との関わりの中で解決すべき課題は増えています。「英語くらいできないと」という時代は本当に来たのです。

数年前、支店長として仙台で勤務しました。在任中、東北大学の留学生グループが支店見学に来てくれたことがあります。英語での質疑の時間を持ちましたが、多彩な国々出身の後輩がいることに、心地よい驚きを覚えた良い思い出です。

現在は、金融分野の人材育成を担う公益法人に勤務しています。近年、自然環境、社会問題、企業統治の要素(ESG)を勘案した金融資産運用の手法が、欧州主導で急速に発展・普及してきています。その分野に通じた人材の育成は課題の一つです。まずは海外の英語の教育プログラムを日本に紹介したいと考えています。日本語訳を待たずに英語のまま使おうというのは、芳賀先生のテキスト選定と同じ発想かもしれません。

私達の時代に比べると、今の経済学部では学生が国際的な環境に身を置く機会はずっと多くなっているようです。学生の皆さんには、機会を活かして将来への可能性を広げてもらいたいものです。これからも母校の益々の発展を楽しみにしています。

小佐野 美智子

    

大学院2009年修了(修士) 株式会社C-plan 代表取締役 医療経営コンサルタント

東北大学創立115周年・総合大学100年おめでとうございます。また、このような機会を頂きありがたく思います。私は経済学研究科の修士を社会人院生として入学致しました。なぜ志望したか申しますと、仕事柄学ぶ必要性を感じたからです。

当時、会計事務所母体のコンサルティング会社に所属しておりまして、その顧問先の多くが医療機関でございました。医療はサービス業だと言われ始めた時代でして、「サービス業」と言われても何をしたらよいかと迷う顧問の医療経営者の皆様方から「教育する人はいないか?」「何をしたらよいか?」と問い合わせが集中しておりました。そこで、もともと金融機関で営業職をして活発に動いていた私は、医療現場に向かい、状況を確認しに出かけ、患者さんに対する関わり、言葉がけや態度など、一般企業の接客業に必要なコミュニケーションやスタッフ同士の連携いわゆる「チーム医療」を行う必要性を肌で感じたこと。それをある程度プログラム化して、仕事をつくりあげたことが現職であります、医療人事コンサルティングのきっかけとなりました。その際に、医療現場で働く皆さんはエビデンスを大事にしているため、伝わる私がどのような学びがある人だと安心して任せられると思っていただけるかということを考え、学びなおしという意味も含めて志望しました。

その後、東北大学はもちろん医学部があります為、特に東北近郊の先生方からは近い存在だと思って頂けることや、一度社会人を経験しているため、その経験が理論化されたことで、私の仕事自体がまとまりやすく伝わりやすくなりました。修士修了直後、たまたまのご縁で本を出す話がきて、さらに医療の現場の皆様に伝えたいことがより伝わりやすくなりました。東北大学に在学できたことで、優秀かつ心優しい友人にも巡り合え、その皆さんのすべてがとてもエネルギッシュで前向きでした。友人は国籍も様々、国内外で活躍しております。また今でもその友人たちとのご縁が続けられておりまして、「現代経営研究学会(aeip-tohoku.com)」という“理論と実践の融合をテーマとした”学会を同期と共に運営しております。

現在、株式会社C-plan(https://medi-cplan.co.jp)という医療コンサルティング会社を経営し18年が経ち、いいクライアントそして、いいスタッフにも恵まれ日々健康でありながら医療の第一線で働く皆様がその専門領域の力を気持ちよく発揮できるような職場環境づくりに日々邁進しております。

また、昨年からは、東京地区経和会(keiwakai-alumni.jp)の副会長を拝命し、若手支援担当として、新たな企画推進など20代、30代、40代の若手と諸先輩方との橋渡しの役割を担わせて頂いております。経和会の活動を通じて、諸先輩方の高いご人徳を学ぶことが叶っております。お世話になりました大学に微力ながらもご恩返しができればという思いでございます。

末筆ながら、東北大学の益々のご発展と同時にOBの皆様の益々のご健勝・活躍を祈念致します。

奥山 恵美子

    

学部1974年卒 七十七銀行社外取締役 前仙台市長

大学の場の力に期待する

2018年からスタートした新学習指導要領においては、「生きる力」を育むということが大きな目標となっています。生きる力とはなんぞやですが、文部科学省の定義によれば、「知・徳・体のバランスがとれた力」とのこと。より具体的には、知は「確かな学力」、徳は「豊かな人間性」、体は「健康・体力」をさすとの説明です。まことに結構なことと思うものの、妙な居心地の悪さも感じます。

元教育長経験者がこんなことを言うのはいかがなものかではありますが、世間を生き抜くためには、もう少しきれいごとではない何かが必要かもと。

振り返って、私が大学に通っていた昭和40年代後半は、いわゆる大学紛争の時代で、授業はストライキのためにほとんどなく、街頭では火炎瓶と放水車が行き交い、立て看やバリケードがひしめくという騒然とした状況でした。当時の私たち学生が、十分な「確かな学力」を得て、大学を卒業したとは思えませんし、「石を投げること」が豊かな人間性につながるものでもないでしょう。

しかしながら、半世紀を経て、同級生が集まると、あの当時、大学で過ごせたことはとても貴重な時間だったと、皆、口を揃えて言うのです。授業のない大学のどこに学びがあったのか。

ある人にとっては、肉体を極限まで追い込んだ部活動の日々があり、またある人にとっては、友人や恩師との深夜に及ぶ飲み会があり、また下宿で鍛えたマージャンの技量で、その後のサラリーマン生活を凌いだという人もいます。つまりは、それぞれに、シラバスには書かれていないことの中に、己の好奇心のゆりかごを見つけ、何事か、後の社会生活につながる導きの糸を得たようなのです。

東北大学にとって、「これまでの学問の成果を伝え、未来に向けての探求心を育む」ことが進むべき本道であることは間違いがないにしても、その周辺には怪しげな脇道や迷路、暗がりを残して、若い世代の好奇心をそっと刺激し続けてくれるよう願ってやみません。

Aysenur AYDINBAKAR

    

大学院2019年9月卒 Lecturer, Department of Economics Social Sciences University of Ankara /Turkey

Before applying to PhD programs at universities in Japan in 2015, I searched the rankings of universities in Japan and academics at the Graduate School of Economics. I saw that the number of programs in English is very low and one of the best universities in Japan, Tohoku University, offers courses in English to prospective students. As we know, research is only possible with a supervisor who both shares their deep knowledge with you to improve your work and supports you at every stage of your PhD. Professors from different research fields attracted me to Tohoku University, where I was sure to find a supervisor who would meet the expectations of any student. After I was accepted by Tohoku University, I progressed with the help of my supervisor. In addition to research activities, there are many international students at Tohoku University who experience the same challenges as you. Thanks to the strong communication between international and domestic students in Sendai, life has become easier.

After graduating in September 2019, I have been offered a lecturer position at the Social Sciences University of Ankara, Turkey, in March 2020. I always tell my students in Turkey about my life in Japan because there are many who want to apply for scholarships to study in Japan. Also, most of them have already learned to speak Japanese. Seeing many young students who are eager to come to Japan motivates me to build a strong bridge between Turkey and Japan.

In 2021, I became a member of the Research Center for Policy Design, which is a good opportunity for me to contribute to Tohoku University. The following year, 2022, I got a great opportunity to return to Tohoku University in the following year, 2022, for a one-month research stay. During my stay, I met new researchers and also collaborated with professors.

I recommend Tohoku University to all prospective students because of the opportunities Tohoku University offers and the quiet life in Sendai. Coming to Tohoku University was one of the best decisions I have made so far.

島 征史

    

学部2014年卒 株式会社MAKOTO WILL 執行役員 株式会社なるこみらい 取締役

私は高校まで和歌山県にいました。見識を広げるために関西とは全く違う文化圏に行きたく、また、社会人になる際にどの様な役割を持つ上でも最も必要になるのが経済・経営学だと思い東北大学経済学部を志望しました。

学生時代は、基礎ゼミで外国籍の方々と交流したことや、高田・米谷ゼミで監査論について議論したことが特に印象深いです。他には、ロジカルシンキングを鍛えるという目的で友人と立ち上げた団体での活動が思い出に残っています。みんなで早起きして教室をお借りし、ひたすらフェルミ推定や議論を行う活動をしていました(「よくやっていたな・・。」と今は思います)。その様な活動を通じて出会った方々とのご縁は今でもとても貴重なものになっています。

現在は、仙台市を拠点に、主に3つの軸で活動を行っています。1つ目が起業を志す方を後押しするサポーターとしての活動です。2つ目が大崎市の鳴子温泉において、旅館の若旦那さん達と一緒に空き家になった物件を使った飲食店の運営を行うプレイヤーとしての活動です。3つ目が東北にゆかりがあり何かしら東北に関わる活動がしたいという方に向けて関わりしろ(プロボノや副業)を作る活動です。この様な活動を通じ、宮城・東北をもっと面白い場所にしていきます。今後とも東北大学の皆様やOBOGの皆様とともに活動させていただけると幸いです。

吉田 祥子

    

学部2019年卒 財務省

東北大学創立115周年・総合大学100周年おめでとうございます。

私は仙台の出身で、高校も東北大学の程近くに通っていました。高校時代は理系で、医療工学のエンジニアとして高齢社会での豊かな生活を支えたい、と考えていましたが、苦手な物理をついに克服できず、浪人する際に文転をしました。改めて自分の将来を考え直した結果、文系として自分が社会にどのような形で貢献できるかはまだわからないが、社会の根底には経済があり、身の周りの全てのものが経済活動の結果の代物であると考え、まずは経済の勉強が不可欠だと経済学部への入学を決意しました。

経済学部で思い出深いのは、小田中ゼミの時間です。自由で活発な雰囲気と、全てを朗らかに受け止めてくださる教授の雰囲気に魅了されて入り、経済に縛られないテーマ(優生学・日本語…)について本を読み、議論をするという、時にカオスで熱量が高い、このゼミでしか味わえない経験をさせていただきました。同世代と議論をし、多様な思想・視点に触れる素晴らしい機会でした。

卒業後は、行政官として、将来世代を含む人びとが安心して生活できるよう、国と地方を行き来し現場を見つめながら、生活の根底にある財政・金融の面から社会を支えていきたいという思いで、財務省に入省しました。2年目までは財務省で財政投融資・国有財産業務に関わり、3年目は金融庁に出向、現在4年目となり地方出向の機会を頂き、愛知県にある東海財務局で経済調査業務をしております。中央と地方、同じ省庁内でも部署が変わればやることも求められることも全く異なりますが、経済・経営学の基礎知識や様々な教養・視点を授けてくれた大学の講義やゼミでの学びが今日の私の糧となっていることは間違いありません。大学生活を支えてくださった皆様にこの場を借りて改めて感謝するとともに、末筆ながら東北大学の益々のご発展を祈念いたします。

杉田 剛

    

学部1994年卒 仙台市経済局産業政策部長

東北大学が創立115周年そして総合大学100周年を迎えられましたことを、心よりお慶び申し上げます。

私は神奈川県で生まれ、高校まで埼玉県上尾市で過ごしました。東北大学の志望理由は、親元から離れて暮らしてみたかったことと、当時数学を得意としていたのですが、二次試験の受験科目が英数国の大学が少なかったからだと記憶しています。

大学在学中は、申し訳ないくらい勉強しておらず、サークルやバイト、旅行などに明け暮れ、最終的には5年間在籍することになってしまいました。もっと勉強しておくべきだったと後悔している一方で、大変充実した5年間過ごすことができたと感じております。

就職については、「人の役に立つ仕事がしたい」「仙台で今後も暮らしていきたい」という考えで、仙台市役所に入庁しました。

これまでに、税や教育、上下水道、地域づくり、震災復興、子育てなど、多岐に渡る仕事を経験させていただき、現在は「地域経済の活性化」をミッションに日々働いております。

国内外の都市間競争が進むなか、本市経済の持続的な成長・発展を進めていくうえで、「この街に東北大学がある」ということが、本市の大きな強みとなっていることを、最近非常に強く感じております。

なんとなく仙台に来てからもうすぐ35年になります。大学に入学した当初は、この街にこれほど長く暮らし、そして携わるとは思ってもいませんでした。

今後とも、東北大学の皆様、そしてOBの皆様とともに、この街の発展に取り組んでいきたいと思います。

平本 厚

    

学部1973年卒 大学院1978年単位取得退学 東北大学名誉教授

1969年初め、私たち受験生は混乱のなかにいました。東大と東京教育大の入試が中止になってしまい、多くの受験生が進学先を考え直すことになったからです。私たち、44Eはそれが大学での最初の共通体験でした。

大学のなかも混乱していました。入学式は「粉砕」され、タテカンとアジ演説とデモの日々のなかで川内事務棟の夜の攻防戦があり、間もなく無期限ストライキとなりました。学生は「権力」に挑戦していましたが、教室のなかでは権威は健在でした。ある先生の講義は、ご自分の原稿を読み上げ、そのまま筆記させるというものでした。日本の学者は、論文では通説を述べ、教室では自説を語る、といわれたりしますが、後者はまさにそんなふうでした。ですから学生はその講義の内容というより、自説を述べるという態度を学んだのではないかと思います。ただ、大半の学生はそれぞれの活動に忙しく、少数の人気授業を除いては講義にはでませんでした。期末試験になると様々な悲喜劇が繰り返されたのは当然で、いろいろな武勇伝がまことしやかに語られました。

大学生活は混乱していましたが、そのなかで個々は激動に対処し続けていくということになったので、その後の私たちにある共通の資質を残したのではないかと思います。私の場合は、やがてそのまま教壇の向う側の世界に移ってその後約40年間もそこに留まることになり、この大学社会のその後の変遷を体験することになりました。「権力」に挑戦する学生さんは減っていきましたが、教室での「権威」も失われていきました。分かりやすい授業が求められ、難解さは排除されて上記のような講義は許容されなくなりました。それが良かったのかどうか、正直なところは教壇から降りたいまでも分りません。

白石 圭太郎

    

学部2006年卒(鴨池ゼミ) 大学院2015年修了(修士)(吉田ゼミ)
株式会社チャレンジドジャパン 代表取締役社長

私は仙台の生まれですが、父の仕事の都合で小学校から宮城県外で過ごしておりました。仙台に住む祖父母の元に帰省する度に、仙台という街が好きになり、東北大学に絶対に進学しようと決めておりました。その後、「経世済民」という言葉を高校の政治経済の授業で学び、世の中を良くするには経済の勉強が必要と思い経済学部を志望したことを思い出します。晴れて念願の本学へ進学し、1年次に小田中先生の講義を受講しました。「歴史学のアポリア」という教科書を使用していたと記憶していますが、内容は今でもアポリア(難問)のままです笑。ゼミは”名門”鴨池ゼミ(金融論)の門を叩きました。今でも多士済々のゼミ生OBに恵まれております。

卒業後はメガバンクに勤めましたが、約3年で辞め、本学同級生らと障がいのある方の就労支援を行う株式会社チャレンジドジャパンという会社を起業しました。当初は「チャレンジド=どんな困難も乗り越えられるであろうと挑戦を受けた方々=障がい者」という意味で社名をつけましたが、創業以来、私自身も様々な課題や困難に向き合い乗り越えてきました。そして起業から12年経った2020年に、私たちは誰もがチャレンジドであると再定義することにしました。障がいがあってもなくてもすべての人に必ず役割があり、それぞれがその役割を果たすことで社会は成り立っています。それぞれが果たすべき役割は全て社会にとって必要なものであり、役割の価値に大きいも小さいもないということをお互いが認め合うことが必要です。そのことを障害者雇用支援という社業を通して発信していくことが、私の今の使命と思っております。

本学では、間違いなく素晴らしい先生、仲間に巡り合うことができます。その環境を活かすのは自分次第です。是非とも充実したキャンパスライフを送ってください。

熊谷 百合子

    

学部2006年卒


    

NНK放送文化研究所 研究員

東北大学が創立115周年ならびに総合大学100周年を迎えられましたことを、心よりお慶び申し上げます。

青葉萌ゆる杜の都で過ごした学生時代から16年の歳月が経ちました。 学生時代の学びは報道ディレクターとしてニュースやドキュメンタリーを取材・制作するうえで欠かせない胆力を培ってくれたと思います。 単一通貨ユーロが誕生したばかりのEUの野心的とも言える平和構築の試みや、バブル崩壊後の“失われた10年”の不況の構造的要因を探求した学びの日々。 経済学の関連書籍も随分と読みましたが、聴講していた小田中ゼミで読んだリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」は思い出深い一冊です。 折しもゲーム理論の隆盛期、経済学とは無関係に思えた進化生物学者の名著に触れることで、進化論とゲーム理論が根底で繋がっていると気づかされたときの衝撃は忘れられません。 ご退官された野村正實先生の外国書講読も贅沢な授業でした。 受講生は2人だけで、興味関心で選んだ英字記事を題材に、ざっくばらんに素朴な疑問をぶつけることができたのですから。 今は時間の余裕も、無邪気さもなく、同じことをしたくてもできません。 卒論のテーマに選んだワークライフバランスについて、片端から文献を読みあさったのも懐かしい日々です。

報道ディレクターの取材テーマは多岐にわたります。 私自身は周産期医療や児童虐待、医療福祉に関わる仕事に比較的多く関わってきましたが、震災や戦争、文化芸能の取材にも取り組んできました。 市井の人々だけでなく、作家、映画監督、俳優、音楽家といった表現者へのインタビュー取材や、時には既に他界した文化人の人物像を、周辺取材から掘り起こすということもあります。 学生時代の専門性をもっと大事にすべきだったのでは…とも思いますが、専門分野にとらわれなかったのは、意外な発見に心躍った学生時代の原体験が根底にある気がします。

現在はディレクター職を離れ、NHK放送文化研究所でメディア動向の調査研究に携わっています。 主な研究テーマはメディアのダイバーシティです。 夜討ち朝駆けに象徴される長時間労働がメディア内のジェンダーバランスに与える影響や、ジェンダーギャップが報道のアウトプットにもたらす影響を可視化するのが当面の目標です。 私自身が育児と仕事の両立に翻弄されたことがテーマ設定の動機です。 卒論のテーマにしたワークライフバランスについて考えをめぐらす日々ですが、当事者になって見える風景も変わりました。 学ぶこと、探求することの面白さを改めて感じています。

在校生の皆さんにとってコロナ禍の学生生活は、思い描いたキャンパスライフとはほど遠いものだったと思います。 キャンパスに行くことすらままならず、気軽に友人に会えない日々が続いたことを思うとやりきれません。 でも、こんな時だからこそ、思い通りにならない生活のなかでの“気づき”や“違和感”を大切にしてください。 その“気づき”や“違和感”が、これからのあなたの原動力となるはずです。 皆さんの東北大学での学生生活が実り多いものとなることを祈っています。

竹田 正幸

    

学部1997年卒


    

つばさ税理士法人 代表社員

私は、平成5年に東北大学経済学部に入学しました。出身は愛媛県の公立高校です。 田舎の公立校であり、周辺に予備校もないため、高校の方針は、国立大学かつ現役での進学でした。 そこで、歴史もあり、旧帝大でもある東北大学経済学部を志望しました。 愛媛県は仙台からは「縁遠い印象」がありますが、実は伊達藩のつながりがあります。 同学年から他学部も含め5名程度、東北大学に進学したと記憶しています。

大学入学後は、「学生生活」を満喫しました。 正直なところ、必ずしも「真面目」とはいえない学生だったと思います。 学生の本文は「学業」ですが、バイト、サークル活動、ゼミ活動(ゼミ活動は「学業」ですが。。。)など様々な経験をしました。 今思えば、今までの人生の中で最も自由な時間があり、様々な経験をし、多くの様々な価値観を持つ人たちとの出会いがあり、青年から大人へと徐々に成長していくなか、「自分とは何なのか」、を見つめることができた時間であったと思います。

大学卒業後は、信託銀行に入社し、その後、公認会計士を志しました。 一念発起し、信託銀行を退職し、受験勉強に専念し、2回目の受験で無事合格することができました。 その後、監査法人勤務を経て、仙台の地で独立開業し、「一国一城の主」となりました。 周りの多くの方々に助けられ、事務所も徐々に大きくなりました。 今は約15名程度の体制で、公認会計士・税理士として、日々、業務に邁進しています。 企業の「参謀役」として、クライアントの健全な発展を通じて、経済発展の「下支え」をしていくことが私の使命です。 今後も、一歩ずつ確実に、経済の発展のため、社会的存在価値のある存在となれるよう、日々精進していこうと考えています。

寺田 早輪子

大学院2020年修了(修士)
株式会社仙台放送 報道制作局 アナウンス部

アナウンサーになって17年目の春。2016年4月。私は「東北大学大学院に働きながら通学する」という大きな挑戦に乗り出しました。

きっかけは当時、キャスターを務めていた夕方のニュース番組に、東北大学大学院経済学研究科の吉田浩教授がゲスト出演してくださったことです。選挙や家計など、私たちに身近な課題について、吉田教授が「数字」を元に分かりやすく解説される様子を目の当たりにしました。日頃から、様々な現場で取材してニュース原稿を書く中で、「数字」は現実を反映すること、そして説得力があることは実感していましたが、その「数字」を使って現状を分析し、未来を見通す力をつけたいという思いが芽生えたのです。

ただ、入学後は数学など「学び直し」の厚い壁が立ちはだかりました。当時、幼稚園に通う4歳の男の子の母でもあり、休職することなく番組にも出演し続けていたため、いわば「三足の草鞋」状態で、時間のやりくりには大変苦労しました。それでも、大学の「長期履修制度」を活用して4年間、通学できたため、心と時間に余裕が生まれました。会社にもご理解いただき、休暇をスクーリングの時間に充て、「加齢経済学」、「観光経済学」、「経営組織論」など、興味のある講義をできる限り受講することができました。そして何より吉田教授をはじめ、多くの先生方が根気強く導いてくださり、何とか研究を続けることができました。教務担当の皆様にも丁寧にご対応いただきました。感謝の念に堪えません。支えていただき、本当にありがとうございました。

大学院での研究活動を通じて、私が得た一番の財産は「人の繋がり」だと感じています。今でも、ご指導いただいた先生方には番組でコメントを頂いたり、取材過程で相談に乗っていただく機会が多くあります。「創立115周年・総合大学100周年」を迎えられた東北大学で、人に支えられながら学びを深め、人とつながることができたことを誇りに思います。

福田 大輔

学部1999年卒

株式会社福田商会

代表取締役専務

東北大学が創立115周年、総合大学100周年を迎えられましたことを心よりお慶び申し上げます。

私は、仙台にて明治19年創業の家業があることから生まれも育ちも地元仙台であり、大学についても東北大学経済学部に進む事を周囲から押されたところがありました。大学生活では授業以外は一般社会人との交流を多くもっていたため、ほとんどキャンパスにいた記憶がありません。但し、1年次に大滝先生の経営学講義を受講した際、是非先生の元で学びたいと感じ、大滝ゼミの門を叩かせて頂きました。18名の同期と共に経営学について議論し、学びを得たことは大変有意義な時間だったと今でも思います。 また、卒業後、信託銀行勤務を経て家業に入りましたが、仙台で仕事をするとあらゆる場面で大滝先生とご一緒する機会を頂くことができ、そこで多くのご縁や新たな気付きを頂戴することができました。

その内の一つが、経済学研究科地域イノベーション研究センターが主導される「地域イノベーションプロデューサー塾(RIPS)https://rirc.econ.tohoku.ac.jp/education/rips/」です。久しぶりに大学で学び、自身の事業プランについて講師や仲間と喧々諤々議論を重ねてブラッシュアップしていく、そんな経験を社会人になっても、東北大学で改めて積ませてもらい、事業発展に向けたヒントを学ばせて頂いております。

そこで得た考えや視座が、弊社の新たな事業展開の一つのきっかけにもなり、本年4月に東日本大震災で津波の被害を受けた集団移転跡地利活用事業として「アクアイグニス仙台」プロジェクトに参画し、失われた地域の賑わい創出・再興に携わることにもなりました。 仙台の地で事業活動を行う者として、東北大学が同じ街にあることを真に心強く感じており、今後も産学連携を強化し、微力ながらも東北の発展に向けて努めて参りたいと思います。

東北大学の今後益々のご隆盛と関係各位のご健勝をお祈り申し上げます。

征矢野 茂

    

学部1978年卒


    

群馬ミート株式会社 代表取締役社長

東北大学「創立115周年・総合大学100周年」おめでとうございます。

私が大学受験の為に初めて仙台に下車したのは昭和49年2月のことです。

故郷の前橋と比較にならない駅の大きさ。人ごみ。活気が溢れる雰囲気。昨日のことのように蘇ります。

高校時代、先輩から社会に出れば東京中心の世界になる。だから東京とは違う文化に触れておいた方がいいという助言を頂きました。私自身もその必要性を感じていました。

そこで、母校である前橋高校において「験がいい」といわれ、多くの合格者が出る東北大学に的を絞りました。また、実家が商売をしていた観点からより家業を発展させる為に経済学部を志しました。

学生時代、下宿先や地元が仙台の友人と奥の細道で知られる町並、海、山で時間をともにしました。

卒業後、私は地元に戻り、家業を継ぎました。家業を営む中で、高校の東北大学入学者の同級生44名。萩友会の仲間。多くの同門の仲間が私の商売を発展させる力になってくれました。この仲間が居なければ、間違いなく今の私はないでしょう。だから、私自身も先輩としてできうる限り後輩にも尽くしていこうと思っています。

多くの同門の仲間が口にします。

「仙台。そして、東北大学は学生を大事にする。」

私も同感です。確かに、現代は閉塞感に満ち、苦しい時代です。でも、経済的に苦しくても必死にやっている学生を東北大学は決して見放すことなく人として大きく成長させてくれます。

私はこの精神こそ仙台の地に根付いている文化と東北大学の伝統によって築かれてきたものだと思います。そして、この伝統は更に磨かれていくと確信しています。

最後に東北大学のますますのご発展をご祈念申し上げます。

ポーンアノン・
ニヨムカ・ホリカワ

学部1973年卒

泰日工業大(タイ副学長

私が日本に留学したのは1968年です。まず日本語と一般教養を履修するため東京外国語大学で三年勉強する予定でしたが、大学でも寮でも留学生としか話さないので二年次に編入できる大学を探していたところ、東北大学経済学部に編入できました。女子は私を含めてたった3人でした。当時学生運動の真っ只中で学生たちのあまりに無礼な先生に対する態度にびっくりしました。当時、タイは先生の前では膝まづく社会でした。歴史が好きだったので、社会思想史のゼミに入りました。当時はほとんどマル経の先生でした。試験は日本語が難しく英語の回答やレポートでおまけしてもらいました。1973年卒業し、一橋大学に進学し日本経済発展史を研究しました。

一番うれしいのは卒業しても東北大に大いに助けていただいた事です。泰日工業大学設立と同時に、交流協定が成立し、大学として最初のスタディートリップは仙台でした。また在仙の三大学と交流ができているのも東北大の先生方のおかげで母校にとても感謝しています。

李 洪雷

学部2009年卒

大学院2016年修了(修士)

株式会社仙台89ERS 取締役

私の出身地は中国の黒竜江省です。2001年8月に来日して、最初の三年間は東京で日本語を学びながら、大学入試への勉強を準備していました。

当初の目標は、会計学科で財務会計知識を学び、将来の自分の職業にすることでした。

その時、日本語学校の先生に相談したところ、「そうであれば、東京の大学だけではなく、地方の国立大学に入ったほうがいい。勉強できるし、充実した留学生生活を過ごせる」というアドバイスをいただきました。ちょうどそのころ、東北大学で会計大学院が設立されたニュースを知りました。そこは私たち中国人留学生の大先輩である魯迅先生も勉強したことがある大学だったので、非常に憧れのまとでした。幸い2回目の挑戦で合格し、来仙しました。経済学部では、充実した学科のプログラム編成を利用し、3年間で卒業単位をほぼ取得できました。2年生のときには、地域イノベーション研究センターのインターンシップ制度を利用し、企業での職務経験をおこないました。また、全学教育の必修科目では青葉山を登り、地理学も学びました。東日本大震災のとき、その知識を同僚・友人に語って、本当に勉強して良かったと思いました。就職したのち、会社の支援を得て、在職しながら会計大学院に入学しました。高度な会計専門職を養うコースで、先生達にご迷惑をおかけしながら、企業価値評価などの知識を習得しました。ちょうどそのころ自分の仕事でM&Aの担当者に任命され、その知識を活かすことができました。本当に東北大学経済学部と会計大学院で学んで良かったと思いました。ご指導していただいた先生達をはじめ、様々な面で学生生活にご支援をいただいた大学職員の方々に感謝したいです。

現在、バスケットボールプロスポーツチーム『仙台89ERS』でクラブ運営に携わっています。スポーツの力で「地域」と「未来」をつなぐというビジョンのもと、子供たちをはじめ地域のファンの皆様に「夢」と「感動」を与えることを役割として頑張ります。

渡邉 光一郎

学部1976年卒

第一生命ホールディングス取締役会長

「経世済民」を目指す学部へ

東北大学が法文学部を設置して総合大学として歩み出してから「100年の節目」を迎えたと知りました。

私が「杜の都仙台」に憧れ、本学OBの叔父を頼りに経済学部に入学したのは、1972年、丁度50年前ですから、100年の歴史の中間の時代を過ごしたことになります。既に教養部と文系学部は川内キャンパスに移転していましたが、片平に法文学部の教室が残っており、2年生の時に片平最後の授業を受けたことを懐かしく思い出します。

川内キャンパスは米軍キャンプ跡地であったことから、チャペルやカマボコ型兵舎も残っていました。時代背景としては、学生運動の影響や「石油危機」もあり、正に“昭和”の時代の学生生活でした。

4年程前に本学の経営協議会委員を拝命したこともあり、川内キャンパスや青葉山新キャンパスを訪ねる機会を得ました。川内キャンパスは、50年前に幼木だった木々が大木へと成長し、こんもりと茂って落ち着いた学舎に変わっていました。

驚いたのは、青葉山の新キャンパスでした。オープンイノベーションの拠点として、企業・自治体・金融など産学官金の連携によって社会価値を生み出していこうという方針が具体的な姿として展開され、その変貌ぶりは言葉を失う程のものでした。本学が総合大学として「Society5.0時代」を念頭に、「戦略的産学共創」や「社会とともにある大学」を目指していることを実感しました。同時に、これからの経済学部はどうあるべきかを考えさせられもしました。

私は、経済界で「新しい資本主義」を議論する中で、経済は本来「経世済民」であるとの考え方に改めて共感を覚えました。経世済民は、「世を経(おさ)め、民を済(すく)ふ」の意だとされます。「Economy」の日本語化でもありますが、その意味よりもはるかに深淵なものを感じます。

本学が「総合知」を土台にしてより大きな社会課題の解決を目指すのであれば、そこに「経世済民」としての叡知を融合させていく必要があるのではないかと確信しています。

経済学部および経済学研究科の学生の皆さんのこれからのご活躍を心より祈念しています。

柏瀬 あすか

学部2016年卒(西出ゼミ)大学院2017年修了(修士)(西出ゼミ)
独立行政法人日本貿易振興機構

東北大学の創立115周年ならびに総合大学100周年を迎えられましたことを、心よりお慶び申し上げます。私は2013年に東北大学経済学部に入学しました。東北大学を選んだのは、興味関心が漠然としていた高校時代に先生からいただいた「総合大学で様々なことを勉強して、興味のある分野を探したらどうか?」という助言がきっかけです。その言葉通り、1~2年目は経済学部内外の授業やプログラムを、興味に任せて履修していました。その後、アジア地域に関心を抱き、台湾へ交換留学をさせていただきました。卒業後は、留学経験や大学院でご指導いただいた研究の作法等を活かしつつ、海外市場・制度等の調査業務に従事しており、興味の赴くままに過ごした大学生活が、今の自分を形作っていると感じております。末筆ではございますが、創立115周年ならびに総合大学100周年を迎えられた東北大学の今後益々のご発展と、皆様のご健勝とご活躍を心より祈念申し上げます。

橋浦 隆一

学部1990年卒(鴨池ゼミ)大学院2019年修了(修士)(大滝ゼミ)
今野印刷株式会社 代表取締役

学生時代を思い起こすと、ゼミやスキーの仲間達と過ごした時間が鮮明に思い出されます。ほとんど飲み会とスキー場の思い出しかありませんが、当時は卒業後に何も残っていないのはまずいので、ゼミの専門科目の金融論とマクロ経済学だけはものにしたいと思っていました。ゼミの仲間にも支えられて、なんとか卒業し金融機関に入社する事もできました。

入社後は、外部の経済研究所に出向し、その後自社の研究所設立時に立ち上げメンバーに選ばれました。退社するまで経済研究所の勤務でしたので、学生時代に「これだけは」と思って取り組んだ事が結果的に役に立ったことになります。ちなみに、学生時代に始めたスキーは今でも続けています。

金融機関退社後は、家族が経営していた会社を任され、経営者として悪戦苦闘しています。実は、東北大学大学院で経営学を学び直したのですが、この学びが経営者にとっての根幹となり、今の私を支えてもらっていると感じています。

八木橋 真央

学部2006年卒 大学院2009年修了(修士)
国立大学法人大阪大学 感染症総合教育研究拠点
科学情報・公共政策部門 人間科学ユニット 特任助教

社会を経済という視点で学ばせてもらった数年間。学ぶ中で、次の方向性を文字通り模索していき、心理学から医学へと軌道修正をし続けて、現在、大阪大学 感染症総合教育研究拠点 科学情報・公共政策部門 人間科学ユニットにて、末端ながら研究を続けている。

このユニークな経歴から、何かしらの面接で必ずから訊かれるのが、「大学入学は、経済学部なのですね。そこからどのような経緯で今のご専門に?」というもの。回答については割愛するが、根底に経済学を学んだことは、現在の研究生活にとって、大きなプラスとなっている。一見にしてつながらないような経歴でも、必ず一本の線が走っている。その線の起点が、わたしにとっては、東北大学経済学部であり、それは川内南キャンパスの木漏れ日のような思い出に彩られている。当時ご指導いただいた先生方には深く感謝するとともに、いつか何かしら形で、恩を返すというよりはむしろ、協働できる機会を作りたい。

伊藤 伍郎

学部1966年卒
大阪市立大学大学院特任教授
元 トヨタ自動車株式会社 経理部 原価管理室長

法文学部開設100周年を迎えられ、同慶に堪えません。

私は、60年前、日本の高度成長が始まる昭和37年、経済学部に入学しました。志望理由は、東北の自然と学都「杜の都」への憧れと、経済学部が、旧帝大の伝統と著名な教授陣を擁していた点です。

入学後は、漫然と流されないように「文武両道」を目指し、勉強とヨット部活動の両立を目指しました。ゼミは新進気鋭の坂下昇教授の「計量経済学」で、鎌先温泉や安達太良登山などのゼミ旅行が懐かしく思い出されます。

卒業後は、トヨタ自動車に入社し、経理の原価管理部門で全社的な制度確立により、高収益体質の基盤作りに取り組みました。

退職後は、専門とする「原価企画」が注目され、大阪市立大学大学院特任教授として、教鞭をとる機会にも恵まれました。大学の理念「研究第一」「実学尊重」の賜物に他なりません。

岩間 剛城

学部1996年卒 大学院2005年修了(博士)
近畿大学 経済学部経済学科 准教授

私は仙台市の出身です。出身高校の近くにあり、実家から通える大学という事で、東北大学への進学は自然な流れでした。学部の選択では迷いましたが、経済の面から日本の歴史を勉強できればと考え、文学部ではなく経済学部に進学しました。ただし学部生の頃は、日本経済史の勉強よりも、学友会将棋部でのサークル活動が中心の学生生活でした。

学部4年時での教育実習の際に、きちんとした説明ができず、自らの勉強不足を実感しました。学部卒業後の進路で悩んだ末に、大学院に進学する事にしました。大学院で日本経済史の勉強を続けているうちに、研究職を目指す流れになりました。幸いにも近畿大学経済学部にて、日本経済史担当での採用となり、現在に至っております。

東北大学経済学部・大学院経済学研究科での、先生方からの学恩には感謝しております。仙台での学びを生かす意味でも、東北と長野の地域金融史研究を進めていきたい、と思っております。

三野 耕司

学部1979年卒

西松建設株式会社顧問

東京地区経和会会長

在学時代は北仙台にありました旧国鉄の子弟寮「白水寮」(25部屋)で入学から卒業まで、丸4年間、多感な時期を東北大はじめ様々な大学、学部の多彩な仲間50名の中で過ごせたことが自身の生き方のベースとなっています。

ゼミの恩師、鴨池先生は10歳ほど上の若い先生で、誰にでも分け隔てなく、心優しく懐深い皆に愛される兄貴分で、先生との出会いは宝物です。はるばる大阪から仙台に来た甲斐がありました。ゼミ生も、広く全国で活躍、今でも先生を囲んで全国から集まります。

杜の都仙台の自然に育まれた素晴らしい環境で、卒業後も続く大学や恩師、同窓生らとの交流は、それぞれ過ごした時代は違っていても同じ仙台の地で、東北大生として過ごした実体験が時代を超えて共通の思いに繋がっていると思います。

総合大学100周年の記念の年、母校、同窓の皆様とともに新しい国の礎づくりを微力ながら努めて参りたいと思います。

経済学研究科3.11の記憶

Talk
日時 2022年6月6(月17:30~18:10
主催 研究科長室、広報委員会
協力 経和会事務局
出席者

佃 良彦

名誉教授

経済学研究科長在任期間:2008.4-2011.3

大滝 精一

名誉教授 / 大学院大学至善館副学長

経済学研究科長在任期間:2011.4-2014.3

小田中 直樹

教授

経済学研究科長:2022.4~

2011.3.11東日本大震災当日の様子、経済学研究科としての対応について、
2011.3当時研究科長の佃名誉教授と2011.4当時研究科長の大滝名誉教授のお話を伺いました。

小田中

2011年3月11日(金)の地震直後の様子を教えてください。

横浜市で3月12日に午前から用務があり、3月11日、12日は出張予定日でした。次期研究科長の大滝さんに、私が留守の間、研究科長代理をお願いし、当日午後の新幹線で東京に向かう途中で地震に遭遇しました。電車では家族が一緒でした。

大宮駅を過ぎて、浦和駅を通過したあたりで、座席に座っていても地震の揺れを感じました。電車は直ちに停車しました。窓の外を見ると、街の電柱と電線が大きく揺れるのが観て取れました。しばらくして、宮城県地方で大きな地震があり、津波が発生しているのを知りました。

電車内に午後6時過ぎまで閉じ込められて、のちに、乗務員に案内されて、電車から外に降り、高架線路にそって1キロほど歩き、高架から工事用階段を下りました。

近くの小学校の体育館で一夜を過ごし、翌日の朝一番の在来線電車(午前9時すぎ)に乗り、横浜に向かいました。電車は横浜までずっと徐行運転でした。12時ごろにJR横浜駅に着きました。横浜での所用を済ませ、帰途に就きました。在来線電車が宇都宮までは動いていたので、そこまで行って宿泊しました。

13日(日)には、宇都宮駅からタクシーで仙台市に向かいました。もちろん、東北自動車道は不通でした。通常道路を走ったのですが、信号はすべて止まっており、道路を走る車もほとんどありませんでした。福島駅あたりで夕方になり、あたりは暗くなってきました。自宅到着は午後7時過ぎでした。

大滝

私は、13:00から宮城大学経営協議会の会議出席中で、そろそろ終わりの時間を迎えるころに大きな揺れを感じ、即座に机の下にもぐりました。大きな揺れがおさまってすぐ、当時学長の馬渡先生(東北大学副学長、経済学部長を歴任)から解散の命が出て、車を運転して大学に戻りました。地震の被害による道路の状態が心配でしたが、30分程度で大学に戻ることができました。戻るとすぐ、研究科長代理として、キャンパス内の教職員の無事を確認し、状況報告を受けました。幸い、けが人はなく、建物も大きな被害はありませんでした。夕方から文系災害対策本部が設置され、今後どのように対応するか話し合いました。19時位に会議が終わり、当時の事務長と建物内の最終確認を行い、施錠し帰途に就きました。大渋滞のため車での帰宅は諦め、2時間半ほど歩きました。雪が降りだしていたこともあって精神的に不安になりました。家でニュースを聴いていたら津波の被害で海岸に多くの方のご遺体が見つかったという報道に驚愕しました。

小田中

当日、研究科長代理を務められた大滝先生に伺います。
当日の被害状況と3月11日の文系災害対策本部の様子を教えてください。
後期日程試験が3月12日に予定されていましたが、混乱はありませんでしたか。

大滝

文系災害対策本部では、人的被害はなく、建物も大きな被害がなかったことが報告
され、片平の本部との連絡も取れていました。翌日の後期日程試験については、周知のしようがないため、立て看板で対応しました。当日は朝から会場前に経ち、入試のため来校した学生に説明を行いました。わざわざ足を運んでくれた学生のことや、ほとんど着の身着のままの状態の学生がいたことを今でもよく覚えています。しかし、混乱はなく、冷静に対応できたと思います。

小田中

佃先生が3月11日から3月31日までの経済学研究科の学生対応や運営面で苦労されたことを教えてください。また、任期の最後に未曾有の経験をされたと思いますが、どのような想いで職務を全うされたのかお聞かせ下さい。

私の研究科長としての任期は3月31日までで、残りわずか3週間ほどです。

出張中にまず考えたことは、「横浜での用務を終了してから如何にして仙台に帰るか、
自宅は倒壊していないか、そして経済学部の建物は大丈夫か」、ということです。

出張から戻っての自宅の様子は、建物自体は無事でしたが、家具類はずいぶんと壊れ散乱しており、電気なし、水道なし、ガスなしでした。

3月14日(月)朝8時30分に大学に出勤し、鈴木事務長、柄目秘書から留守中の報告を聞き、大滝さんからの報告書を見ました。

金曜日の学部での対応を確認し、経済学部建物の外観は大きな被害は見当たらないことが不幸中の幸いでした。しかし、わたしの研究室は書棚から書籍がすべて落下して、床は本の洪水、研究棟4階図書室の書架は氾濫状態でした。

任期最後の3週間に私が行ったことは、学部生・大学院生の安否確認で、研究科の先生方にお願いし、それぞれ分担して確認作業を進めました。3月ですでに春休みに入っているので、全学生の確認作業は必ずしも容易ではありません。完了までには、2週間ほど要した記憶があります。これに関連して、残念ながら、経済学部一年の女子学生1名が津波に巻きこまれて亡くなりました。当時学生委員の小田中さんに、この学生さんの葬儀に名取までご足労お掛けしました。

留学生の離仙台問題として、オーストラリア、米国、中国などの在外公館が其々の自国学生を仙台から隔離する動きをしました。在外公館が仙台市庁舎前に学生を集め、チャーターしたバスに学生が乗ったようです。

例えば、中国人留学生がバスで新潟市(中国領事館が新潟市に存する)まで行きましたが、そこから先の案内が不明であったのか、困った学生が新潟市から経済の国際交流支援室に電話してきました。当時国際交流支援室に居られた末松和子先生が夜中に新潟まで自分の車で助けに行くという事態がありました。こうしたことは、研究科にとっては困ったことでした。

任期後のことでありますが、2011年9月のホームカミングデーで、3月に卒業式が行われなかったため、経和会(経済学部・経済学研究科同窓会)経由で卒業生有志から疑似卒業式をやりたいという申し出がありました。40~50人位来たように思います。当日、卒業証書を預かって、一人一人に渡すことが出来たのが良い思い出です。

小田中

大滝先生は、4月1日に研究科長に就任して最初の仕事が震災復興に関する業務となったと思いますが、どんな想いで指揮を執ったのでしょうか。また、震災復興研究センターを立ち上げ、先生の専門的知見から東日本大震災被災地における産業再生や雇用創造に関して様々な提言を積極的になされていましたが、その当時の状況をお聞かせ下さい。

大滝

4月1日に研究科長に就任する前から、復興について、先生方から提案がありました。ボランティア活動などダイレクトな支援もあるが、中長期的支援を行うことが大切だと思っていました。そこで、調査・分析などで復興に貢献する「震災復興研究センター」を、増田聡教授(地域計画)を中心に立ち上げました。また復興に係る人材育成については藤本雅彦教授を中心とする「地域イノベーション研究センター」にお願いし、この2つの柱を立てて復興研究を進めることにしました。本研究科の教員のみならず、他大学・他機関にも声を掛けて、短い期間で100人以上の共同研究者が集まりました。ただし、文科省からの研究支援助成のための申請には時間がかかるため、運営面で不安がありました。その時、経和会(経済学部・経済学研究科同窓会)からすぐに使える助成金を支援するというご提案をいただき、迅速に復興研究を進める準備が出来ました。そのため、経和会会員の方々は大変感謝しています。

また、有難いことに震災一年以内に全国から多くのご支援の申し出がありましたが、どのように捌いたら良いか悩みました。それでも、限られた時間の中で周りの教員の協力も得て、一つ一つ対応して前に進んだことで、復興の礎を築くことが出来たと思います。

『経和会記念財団50年の記録』(2022.3刊)の記念誌を執筆準備中、震災後の復興研究の資料などを振り返ってみたところ、東北のみならず他の地域の大学や地方自治体が協力して行っていた復興プロジェクト研究やシンポジウムが、経済学研究科の存在を内外にアピールしているような印象を受けました。

大滝

『東日本大震災復興研究』のシリーズはこれまで5巻発行*されています。実態調査に基づく分析、事例研究、シンポジウム等を多くの大学、機関に加え、地元の企業などと積極的に行ってきました。また、NPO/NGOや市民の方々にもご支援やご意見をいただいたお陰で、さらに議論を深めることが出来ました。初動がきちんと出来ていたから、 『東日本大震災復興研究』の中で、産業再生や雇用創造に関して様々な提言を行うことが出来たと思っています。

(*2022.3.15最新刊の第6巻刊行/震災復興の10年の歩みと復興の先に見据えるべきものを提言。)

小田中

お二人のご尽力のお陰で、本研究科では安全対策や災害対応マニュアルの整備も進み、震災復興研究センターによる復興プロジェクト研究が継続して行われています。最後に、本研究科の学生、教職員に今後期待したいことをお聞かせ下さい。

2011年3月11日に起きた東日本大震災は500年に一度の大災害だと言われます。同時に、南海トラフ巨大地震は、今後数十年の内にかなりの確率で発生するとも言われます。従って、巨大地震に対する備え・対策は日本全体の課題です。

また、東北大学では、震災後に災害科学国際研究所が設立され、地震に関する科学的研究や災害対策・災害復興の研究を進めています。この研究所では自然科学的手法だけではなく、歴史的アプローチも用いられていると聞いています。災害復興の分野では経済学研究科が大いに貢献できるのではないでしょうか。さらに、震災復興に留まらず、広く経済学・経営学の教育および研究において若い研究者の皆さんの活躍に期待します。「文系は人を創る」というように、東北全体の中で知的な貢献をできるような支援体制やノウハウを身に着けてほしいです。

大滝

これまで震災復興研究センターや地域イノベーション研究センターで培った知恵やノウハウは必ず役に立つと思っています。研究を進める先生方の中でも、節目節目で何をしていくべきか、何をしたいかをよく確認することが大切です。震災後、被災地を中心として、地域を変えるような20~40代の新たな若い人材が入ってきて、いろいろな知恵を出してきている光景がみられます。今後、実証研究、人材育成についても、新しい地域づくりがこれまでのものとどのように連携するのかなど、地に足をつけて進めていってほしいと思います。