研究の周辺

(2009年7月8日)望田幸男『二つの戦後・二つの近代−−日本とドイツ−−』ミネルヴァ書房、2009年、を読んで

 望田幸男『二つの戦後・二つの近代』を読んだ。研究者としての望田氏の誠実さを強く感じた。この文章は本の感想なので、以下、敬称は略す。
 私が望田の名前を覚えたのは、学部生の時であるから、40年になる。望田や飯田収治たちの共著『ドイツ現代政治史』(ミネルヴァ書房、1966年)を読んだのが最初である。この本のタイトルが「政治史」であり、また望田のその後の仕事がドイツの軍国主義にかんしたものであったので、私は望田を政治史の専門家であると思っていた。ところが1990年頃から、もっぱら「教育」「資格」について研究を次々と発表しはじめた。その時点で私は、ドイツにおける社会史研究の進展に影響されて望田が政治史から社会史へ移ったのだろう、と思った。
 しかし、望田が「教育」「資格」の研究に移っていったのは、そのような外的な影響によるものではない。望田の研究者としての誠実さが、いわば必然的に、望田をして「教育」「資格」の研究におもむかせた。本書はそのことを、じつに説得的に語っている。
 1931年生まれの望田は、敗戦のときに中学の2年生であり、軍国少年であった。この世代の多くの者がそうであったように、望田も「悔恨共同体」のメンバーになり、研究者としては講座派・大塚史学の強い影響から出発した。しかし日本資本主義の高度経済成長という現実に直面し、また上山春平たちの研究潮流からの刺激を受け、講座派・大塚史学では歴史と現実を説明しえないのではないかと考えるようになった。
 他方、ドイツの歴史学界は、日本の歴史学界とは対照的に、敗戦によって大転換を経験しなかった。そのドイツの歴史学界において、1960年代末に、学界主流派にたいする批判が「社会史」Sozialgeschichteという形で展開されるようになった。新しい研究視角を模索する望田は、この研究潮流に共鳴した。
 望田にとってとりわけ重要な事実発見は、プロイセン軍隊の士官候補生になる道が二つあった、ということである。一つは任用試験に合格するという道であり、このことはよく知られていた。新たな発見は、ギムナジウムのアビトゥーア合格者は無試験で士官候補生に任用される、という事実であった。アビトゥーアとはギムナジウムの卒業試験のことであり、アビトゥーア合格は大学入学資格取得を意味する。この事実を知った望田は、アビトゥーアの社会的文化的意義を検討する必要に迫られた。そして望田は、ドイツにおける「教養市民層」を発見した。
 教養市民層の発見によって望田は、「近代ドイツ=ユンカーの優位=近代ドイツの後進性」というシェーマを克服する視角を手に入れた。さらに、それにとどまらず近代ドイツを「資格社会」と規定するようになった。
 しかし、本書をこのように要約してしまうと、本書のすばらしい香が消えてしまう。望田は、抑制のきいた文章で、日本の歴史学界とドイツの歴史学界を対比させつつ、自身の研究の歩みを率直に語っている。私は、研究史にその名が記されるようなすぐれた研究者は自分の研究を回顧した文章を残すべきである、と思っている。なぜならば、そのような研究者の研究の歩みは、研究史そのものであるとも言えるからである。もちろん、そうした研究者の発表する研究論文や研究書によって、研究の変遷を知ることができる。しかしそれによってその研究者の研究の歩みすべてが理解できるわけではない。どのように「時代精神」と対峙し、自らの道を決めていったのかは、研究論文や研究書では知りえない研究史の裏面であると同時に、歴史への証言でもある。本書は、研究回顧として最良のものの一つである。
 ただし、本書を高く評価するからといって、私は望田の「資格社会」論を無条件に受け入れているわけではない。「資格社会」論が重要な問題提起をしていることは間違いない。じつは私は、これから書きはじめる書き下ろしの本のために、望田幸男編『近代ドイツ=資格社会の展開』(名古屋大学出版会、2003年)、望田幸男編『近代ドイツ=「資格社会」の制度と機能』(名古屋大学出版会、1995年)を中心とする望田の「資格社会」論を読み直した。その一環として本書を手にした。望田の「資格社会」論から学ぶべき点があることを再確認したと同時に、不足している点がある、とも思った。それをはいくつかの点にわたるが、とりあえずここでは二つの点だけに触れておく。
 一つは、望田たちの研究では、ドイツの労働組合について触れられていないことである。したがってまた、ツンフトの歴史的遺産について、何の評価もおこなわれていない。
 もう一つの点は、近代ドイツを「資格社会」ととらえることが、近代日本を見る上でどのような視角をもたらすのかについて、言及されていない。望田は「比較の歴史学」を提唱しているだけに、近代ドイツを「資格社会」と規定するならば、日本は何と規定されうるのか、言及すべきであった。これからの私の仕事に関連していえば、日本は「資格社会」にならなかった。そのことが日本の産業構造、就業構造に決定的な影響をあたえた。しかし、この点について論じることはまたの機会にしたい。
 私は本書を若い研究者に強く薦めたい。「研究」と呼ぶに値する研究の少ない今日、研究する姿勢とはどのようなものか、本書から学ぶことができるであろう。


(2008年12月12日)1920年代初頭の苦学生

 私の研究室がある経済学部棟は、第一次オイルショックの最中に建設された。建設資材が高騰する中、増えない予算という制約の下で、みすぼらしい建物になった。1978年の宮城県沖地震をはじめ、ある程度の地震が来るたびに建物に亀裂が入った。地盤が弱いこともあり、震度3程度でも、研究室にいると相当に揺れる。経済学部としては建物の取り壊し、全面新築を申請したこともあったが、認められず、今日まできてしまった。しかしこのたび、新築の代わりに、耐震工事が施されることになった。そのため、建物を空にする必要があり、今年7月24日に全員が建物から退去した。
 建物からの退去は大変な作業であった。本や資料、さらにさまざまな物品を、倉庫に保管するもの、廃棄処分するものに区分けし、段ボールに詰め込んだ。すでに私の研究室は満杯状態だったので、大量の本や資料を廃棄処分にした。その作業のため、退去前の2カ月間がつぶれてしまった。難民キャンプとして文学部の建物の一部を借りることになった。難民生活中は二人一部屋ということもあり、本や資料の大半は倉庫行きとなった。難民生活に入る前に、研究ができないことは覚悟していた。面白そうな本を読んだり、雑文を書いたりして難民生活を過ごすことになりそうだ、と思っていた。ところが実際に難民生活に入ると、雑文を書く気力もなくなってしまった。私のホームページがこのところずっと更新されていないのは、研究室の引っ越しと難民生活のためである。
 今週ようやく、元の研究室に戻る日程が発表された。12月22日である。この引っ越しの前に再度荷造りをする必要があり、さらに元の研究室に戻った後のアレンジメントで1ヵ月はつぶれるであろう。研究室が落ち着いたからといってすぐにホームページの更新をする余裕はないであろうから、このまま放置すると、一年近くホームページを更新しないことになる恐れがある。そこで、引っ越し前になんとかホームページを更新しようと思い、1920年代初頭の苦学生について少し書きとめておくことにする。といっても、研究書や資料の大半が倉庫に保管されているため、ここで書くことは、手元にある本の簡単な紹介と、私の若干の感慨にとどまる。
 私の手元にある本は、日本苦学生同盟会編『東京苦学就職案内』進文館である。本の冒頭に、「本書は日本苦学生同盟会が、嘗て東京苦学講義録として発行せるもの全三冊を合本として改題の上発行したものであります」と書かれているが、発行日付はない。しかし、第三分冊に「付記」として、「凡て本校は大正13年(大正12年の誤記−−野村)9月1日の大震災前の調査にかかるものであるから、学校の位置、校長の2点は多少変更をまぬかれぬ」と書かれているので、この合本が1923年あるいは1924年に出版されたものとみてよいだろう。また、第一分冊の学校案内に東京商科大学が紹介されている。東京高等商業学校が東京商科大学に昇格したのは1920年なので、第一分冊が公刊されたのは1920年以後であることは明白である。つまりこの本は、1920年代初頭に公刊されている。
 私は1960年代末・70年代初に学部生活を送った。苦学生であった。学生のアルバイトとして思いつくようなアルバイトは、ほとんど経験した。そうした個人的経験があるので、私の学生時代からほぼ半世紀前の苦学生がどのような生活をしていたのか興味があった。
 まず、日本苦学生同盟会というものがどういうものか、いくつか検索してみたが、わからなかった。国立国会図書館NDL-OPACでも、法政大学大原社会問題研究所の所蔵文献にも、日本苦学生同盟会の書物はない。私はこの本を古本屋で買ったが、現在は「日本の古本屋」にもない。日本苦学生同盟会の実体はかなりいかがわしいものであった可能性がある。
 この本を読む限りでは、日本苦学生同盟会は会員制で、会員にたいして、職業紹介、寄宿舎の運営をおこなうとともに、入学や就職にさいして身元保証人になる。職業紹介や寄宿舎の運営は実際におこなっていたかもしれないが、身元保証人になることについては、にわかには信用しがたい。日本社会では就職にさいして身元保証人を要求することが一般的であった。今日でも多くの会社において、就職時には身元保証人が要求されている。就職時の身元保証人制度は、これまで指摘されることがほとんどなかったが、日本の労働市場にとって重要な役割を果たしてきた。しかしここではそれについては論じない。実態のわからない日本苦学生同盟会がおこなう身元保証は、身元保証として機能したのであろうか。
 それはともかくとして、本書は、苦学にかんする他のhow-toものに比べて、苦学生の仕事種類を数多く紹介している。それらを列挙すると、次のようである。なお、本書はとくには明記していないが、記述内容からは、男子苦学生のみを対象としている。

 新聞配達
 新聞売り子
 人力車夫
 写字生と筆耕生
 牛乳配達
 書籍の呼び売り
 法律事務員
 公証役場の書記
 私塾教師
 郵便局事務員
 鉄道局運輸部員
 玄関番
 雑誌会の配本係
 謄写版印刷
 卵の行商人
 文房具行商
 電話交換手
 学僕
 電柱時計の鍵巻き
 街灯の点灯および消灯
 鉛版工
 状袋製造
 逓信局通信生
 速記者
 医師の書生
 諸官省の雇書記
 逓信書記
 タイピスト
 電車および車庫の掃除夫
 広告勧誘員
 製本職工
 駅夫
 下駄の歯入れ
 大正焼屋
 活版職工
 印刷局印刷工
 印刷職工
 電車の車掌および運転手
 自動車運転手
 巡査および看守
 家屋の探訪者
 官省諸会社の夜間受付
 貸本商
 散水人夫
 納豆売り
 豆腐売り
 諸官省諸会社の給仕
 おでん屋支那そば屋
 広告まき
 活動人夫
 道路人夫
 理髪店の助手
 新聞発送掛

 「人力車夫」には、さすがに時代を感じる。「人力車夫は新聞配達に次ぐの好職業である」と記されているので、かなり多くの苦学生が人力車夫として働いたのであろう。ただ、人力車夫として働くためには、初期投資が必要であった。警察から鑑札を下付してもらう必要があり、それには願書のほかに、上衣、股引、合羽が必要である。笠は、学生帽で代用できるとされていた。鑑札を持って、貸し車屋に行く。人力車には提灯とひざ掛けが必要で、それは自前でそろえる。15円前後で揃うようである。「二三人の客を乗せれば一晩に四五円の収入はある。雨天の日は二割増しである」。
 本書に紹介されている苦学生の職業に、「私塾教師」は記載されているものの、家庭教師への言及がない。本書と同じ時期に公刊された杉山太郎『各種方面独学受験竝就職案内』(光明堂書店、1923年)は、「智能的労働方面」、「肉体的労働方面」、「独立営業的方面」に区分して、苦学生の仕事を列挙している。ところが、この本にも家庭教師の職は登場しない。
 家庭教師の職がなかったわけではない。目下、私の本や資料の大半が倉庫に眠っているので、確かめることはできないが、友愛会の創立者である鈴木文治は苦学して東京帝国大学法学部を卒業した。たしか、鈴木文治は家庭教師のアルバイトもしたはずである。20世紀初頭のことである。1920年代前半において、家庭教師のアルバイトは、存在することは存在したが、ごくわずかの学生がおこなっているにすぎなかった、と言えるのではないか。
 しかし、1940年には、家庭教師の職は、大学生と高校生にとって堂々たるアルバイトであった。箕輪香村『男女東京遊学指針−−苦学と就職の秘訣−−』(文憲堂、1940年)は、男子苦学生の職業を紹介する中で、「某誌掲載の記事が好参考と思ふから転載して置く」として、「某誌」から次の文章を引用している。
「東京帝大には、紹介部の設けが有り、学資乏しき学生の為めに、紹介の労を取つて、学資を得る方法を講じてゐる。之に依つて与へられてゐる仕事は、主として家庭教師と翻訳とである。家庭教師は中学生相手が最も多いが、一週に一又は二回で一回であれば十円、二回であれば十五円ないし二十円である。依頼者の希望に依つては其の家庭に住み込む者もあるが、其の場合には勿論食事付で、報酬も多い。第一高等学校でも、学生相談部があつて同じく生徒が委員となつて、熱心にそれに従事している。此処の職業も、矢張り中学生や小学生の家庭教師で、一週の中三日、一日二時間乃至三時間位で二十円乃至二十五円である。矢張り家庭に住込む者もある。現在一高で共済部を通じて家庭教師となつてゐる者は二十名ぐらいある。」(pp.66-67)
 この記事からは、東京帝大や第一高等学校が家庭教師を学生のアルバイトとして後押ししていたことがわかる。ただ、戦後と違う点は、住み込みの家庭教師がいたことである。おそらく、この時期にもまだ書生を雇う裕福な家があり、家庭教師を住み込みにさせることに違和感がなかったのであろう。戦後になって書生が消滅していくプロセスと住み込みの家庭教師がいなくなるプロセスが同時に進行したと思われる。
 男子苦学生にとって家庭教師のアルバイトが一般的となったのは、戦間期であるといってよいだろう。
 なお、同書は、女子苦学生について、「家庭教師をして苦学してゐるものは、大抵、女学校卒業者で、尚高等専門の学校を望み、学資の不充分なものが携わってゐる様であります」と記している。著者は「大日本国民中学会受験部長」であるが、どうも女子苦学生についてはよく知らないと見える。「携わってゐる様であります」という表現にその点が表れている。ただ、女子苦学生の家庭教師がいたことは間違いないと思われる。高等女学校の女子生徒や、高等女学校の受験生に男子の家庭教師をつけることは、戦間期には、「良家」にとって好ましいことではなかったであろう。その場合に、女子の家庭教師が雇われたものと思われる。
 それにしても、苦学生にたいする社会の評価は低かった。日本苦学生同盟会編『東京苦学就職案内』は、もちろん、苦学を奨励し、実際的アドバイスを与えることを目的としていた。そのような本であるにもかかわらず、苦学を次のように描いている。
「苦学せんとしたならば、それが為に如何なる労働をし、仕事をしても、決して恥じないだけの覚悟が最初から必要である。私の知ってゐる人で、下駄の歯入れをして苦学をしてゐる大学生がある。理髪店の下働きや、夜、支那蕎麦を売つて学校に行っている人も知ってゐる。此の様に何職でも自ら進んで働く様にすれば、広い東京にはどれだけでも苦学生の仕事はある。例え便所の掃除をしてゐても、親の金に依って勉強してゐる学生より、どれ程、力あり尊いことであらう。しかし、心せねばならないのは、いかに職業は賤しい事に従がはうとも、心まで落としてはならないと云ふことである。毎日の生活が自然にその人の心を染めて行くことは否まれない事実であるが、しかしこれとてもその人の心を一つで充分に耐え徹し得るものである。どんな時になっても、自分の心を汚す様なことをしてはならない。」
 つまり、苦学生は「賤しい」職業によって「心を染め」られるのが普通である、そうならないためには「自分の心を汚す様なことをしてはならない」という強い意志をもて、とお説教している。裏返していえば、苦学生にたいする社会的評価が低いのは、当然であるということになる。
 苦学生をこのような目で見るのは、なにも1920年代だったからだ、ということではない。旺文社編『大学高校卒業生のための就職年鑑 昭和34年版』(旺文社、1958年、23頁)は、これから就職活動をおこなう学生のために、さまざまな助言をしている。そのひとつに、「学生アルバイトをやっていた人は」として、次のように書いている。
 「会社側としてはアルバイトの経験のある人は、あまりに現実的になりやすいし、また家庭環境があまりよくないからするのじゃないかと邪推したものです。そのため一時アルバイトが毛嫌いされたときがあり、面接試験の場合などでは必ずその経験の有無を問われたものですが、今ではだんだんアルバイトに対する考えも変ってきたようですね。第一、アルバイトを経験した学生のほうが多いのですから、大して問題にはなりません。」
 日本の会社はアルバイトの経験のある学生を「毛嫌い」していたのである。なぜ「毛嫌い」したのかについては、次回に論じたい。とりあえず、研究室の再度の引っ越し前に、以上のことだけを書いておく。





(2008年4月19日)
私の推薦図書 石塚史樹[2008]『現代ドイツ企業の管理層職員の形成と変容』明石書店


 新しい試みとして、これから時折、私が読んだ本の中で推薦できるようなものがあった場合、このホームページで紹介しようと思う。もちろん簡単な紹介であり、きちんとした書評の形式はとらない。きちんとした書評を書こうとすると、けっこう時間と労力を要するからである。
 ブロッガーのサイトを見ると、驚くべき読書量の人がいる。私もずっと若いころ、かなりの量の本を読んでいた。読んだ本の量からいえば、大学院生時代が私の最盛期であった。30代の中頃であったのか終わりごろであったのか記憶がはっきりしないが、そういえばこのごろ、専門分野や隣接分野について面白いと思える本に出会わないな、と思ったことがあった。学部時代や大学院生時代には面白い本がずいぶんあったのに、このごろは面白い本に出会わないと感じるのは、もしかすると面白い本が出ているにもかかわらず、私の感性が摩滅してしまい、面白いと感じなくなってしまったのではないか、と考えた。しかし思い直して、自分の専門分野とは関係のない本ではまだおもしろいと感じる本がそれなりにあるので、私の感性が摩滅したわけではないだろう、と考えた。専門分野や隣接分野について面白いと感じる本が少なくなってしまったのは、一応のことを知ってしまったので、よほどのことがないと面白いと感じなくなったのであろう、と思った。学部時代や大学院生時代は学ぶべきことがたくさんあって、それらを知ること自体が面白かったのであろう。専門分野や隣接分野について研究史や研究状況をひと通り知ってしまえば、その分野の本を読む限界効用が逓減するのは当然である。
 もう長い間、私は大学院生時代のように手当たり次第に本を読む習慣をなくしている。本を一瞥し、どうということはないであろうと思われる本は、そのままににしておくか、せいぜい序論と結論に目を通すだけになっていた。そのかわり、読むに値すると思われる本は、以前よりも丹念に読むようになった。良くいえば、多読から精読へ、である。というわけで、豊富な読書量を背景として推薦図書を選ぶというわけではない。私が精読したもので、少しでも多くの人に読んでほしいと思われる専門書をこれから時折このホームページで紹介したい。
 今回取り上げるのは、石塚史樹[2008]『現代ドイツ企業の管理層職員の形成と変容』明石書店、である。
 奥書によると石塚氏は1975年生まれなので、32歳か33歳である。最初の著作を出版するのにちょうどよい年齢である。私が最初の本を出版したのが32歳であったからこういうのではない。別に統計を取ったわけではないので正確さは保証しがたいが、実感として、社会科学研究者が自分の単独著書を出版する年齢は、40代前半がもっとも多いと思われる。普通、最初の著書は、指導教員や先輩研究者などの強い影響を受けている。研究者個人の本当の個性が発揮されるのは、第二作目以降である。ところが40代で最初の著作を発表した多くの研究者は、ほぼその時点で力を出し尽くしてしまったかのように、それ以後、モノグラフを書く気力を失い、単発論文を発表するだけに終わってしまう。そういう場合、単独著作の第二作は、いろいろな雑誌に発表した論文の寄せ集め論文集になる。そこでほぼ、研究者としての活動を止める。
 私は、一生を通じて見た場合の研究者の生産性は、最初の本を出版する年齢に強く相関しているのではないか、と思っている。才能があっても最初の仕事をまとめるのが遅れてしまった場合、その才能を十分に生かしきる前に研究者としての気力が衰えていってしまう。逆に、これといった才能がなくても、早めに最初の仕事をまとめ、引き続き自分の関心に沿った研究を進めていくことによって、研究への意欲を持続し、それなりに研究成果を出し続ける。私の場合は、明らかに後者である。今日まで私が研究者としてやってこれたのは、人的つながり、めぐまれた研究環境に加えて、とにかく30代前半で最初の仕事を取りまとめたことにある、と思っている。私は、若い研究者に、30代前半で最初の仕事をまとめよ、どんなに遅くても40になる前に最初の仕事をまとめよ、と声を大にしていいたい。
 石塚氏は、以上のような意味において、好スタートを切ったといえる。もちろん、私が本書を紹介したいと思ったのは、それが理由ではない。実証研究が容易ではない研究対象に、できる限りの資料発掘と事実発見によって迫りたいという姿勢がはっきりと出ているからである。お手軽な「実証」がまかり通っている研究状況の中で、私はそうした姿勢を高く評価する。
 前置きが長くなってしまった。本書は「第T部 ドイツ企業の変質と管理層職員の形成」と「第U部 事業再構築のもとでの管理層職員」からなる。管理層職員とはFuehrungskraefteの訳語であり、経営陣に属さない管理層を指している。被用者であるが、しばしば経営陣の候補者と目されている。本書は、この管理層職員に着目しながらドイツ企業の変質過程を詳細にフォローしたものである。
 まずはじめに、注文を2つ述べておきたい。1つは、本書のタイトルである。『現代ドイツ企業の管理層職員の形成と変容』というタイトルは、学位論文のタイトルとしては適当であるが、もっと幅広い読者層に読んでもらうためには適当ではない。このタイトルは、本書の扱うテーマがきわめて特殊なものであるという印象を与える。明石書店は個性的な出版社であるため、こうしたタイトルを許容したのであろう。しかし本書は、管理層職員にスポットライトをあてながらドイツ企業の変容を分析したものである。本書の内容をよりよく表すものとして、そしてもっと幅広い読者層にアピールするように、本書は、たとえば『現代ドイツ企業の形成と変容−−企業と管理層職員−−』のようなタイトルを考えるべきであった。
 もうひとつは、「第T部 ドイツ企業の変質と管理層職員の形成」の叙述に工夫が足りない点である。管理層職員については日本で研究がまったくないため、概念規定を厳密に論じ、管理層職員の利益代表制度について詳述する理由はよくわかる。しかし静態的叙述という印象は免れない。たとえば日本の大卒職員との対比で、なぜドイツの企業では管理層職員というグループ分けが生じたのか、日本企業における大卒職員とどこが同じでどこが違うのか、などを論じていたならば、ドイツ企業の特質を浮き彫りにでき、叙述ももっと魅力のあるものになったと思われる。
 本書でもっとも精彩があり、興味深く読めるのは、「第U部 事業再構築のもとでの管理層職員」である。この第U部は、ドイツの代表的化学企業が1990年代にどのような事業再構築をおこなったのか、それが管理層職員にどのような影響を与えたのか、それに対して管理層職員がどのように対応しようとしたのか、実態調査をもとに生き生きと描いている。
 私の関心に引きつけていえば、次のようになる。1990年代初めのドイツ企業は、というよりも世界中の企業がWomack/ Jones/ Roos [1990] The Machine that changed the world, Rawson Associates にショックを受けた。Womack/ Jones/ Roosはトヨタ生産方式を一面的に理想化し、それをlean productionと名づけた。lean productionはあらゆる国のあらゆる産業の経営者にとって呪文のようなものになった。lean productionを実行すれば、在庫はゼロ、利益率は急上昇、しかも労働は人間化される、というのであるから、経営者が飛びつくのも無理はない。私が参加したヨーロッパでの国際会議では、スペインの研究者が、スペインでは病院までもがlean productionに取り組んでいる、と発言した。最初、病院のlean productionという事態に参加者から失笑が漏れたが、患者の人権が完全に無視されているその実態を知るに及んで、会場がしーんとしたことを今もよく覚えている。
 ドイツの経営者も熱に浮かれたようにlean productionと唱えはじめた。労働組合サイドは、主流派は懐疑的であった。しかし、別の思惑から、経営者の唱えるlean productionに乗ろう、という勢力もあった。その頃私は日本の自動車産業の生産システムを調査していたため、IG Metall(金属産業労働組合)の本部や地区本部、さらには自動車企業の従業員代表たちに呼ばれ、講演をしたり意見交換をする機会が多かった。労働組合内ポリティックスやドイツ企業の発想法を間近に観察でき、面白かった。もっとも、私自身が労働組合内ポリティックスに巻き込まれ、逃げるのに苦労した。それはともかく、この頃のことをきちんと書いておけばよかった、と今になって悔やんでいる。
 私は、lean productionの導入をめぐって、ドイツ企業は変わるかもしれない、と肌で感じた。lean productionをめぐる議論の次に、これまたアメリカから、shareholder valueという経営理念がドイツ企業に強い影響を及ぼしはじめた。lean productionとshareholder valueとの違いを象徴的に示していたのは、lean productionの時には英語をそのまま用いたり、ドイツ語訳のdie schlanke Produktionを使ったりと、ともかくある程度のドイツ化現象があったのに、shareholder valueはついにドイツ語訳が登場しなかったことである。このことは、アメリカ的な経営理念がドイツにストレートに影響を及ぼし始めたことを示している。shareholder valueが議論されているとき、私は、ドイツ企業は確実に変わりつつある、と思った。そして2002年にJosef AckermannがDeutsche Bankの頭取になった時、私はドイツ企業は変わった、と思った。
 ドイツ企業は変わった、と思ったものの、ごく大雑把にそう考えただけであり、個別企業レベルでどのような動きがあったのか、知っていたわけではなかった。今回の石塚氏の著書を読んで、私が知りたいと思っていたことがわかった。
 1990年代におけるドイツ企業のリストラクチャリングがどのようなものであったのかに関心のある人すべてに本書を薦めたい。また、日本企業のリストラクチャリングとの対比も面白いテーマとなるであろう。



(2008年1月25日) 天野郁夫編『学歴主義の社会史−−丹波篠山にみる近代教育と生活世界−−』(有信堂、1991年)への個人的体験にもとづく書評

 天野郁夫編『学歴主義の社会史』の書評を書き上げた。書評といっても、「個人的体験にもとづく書評」とことわってあるように、ジャーナルに載せるような書評ではない。個人のホームページで公開するための書評である。ただ私なりには問題点を指摘と思っている。
 書いているうちに、ずいぶん長いものになってしまった。400字詰め原稿用紙に換算して100枚ほどである。そのため、全文はPDFファイルとし、ここでは書評の骨格だけを書いておく。骨格を読んで興味を持った方は、骨格を記した文章の末尾にリンクしているPDFファイルをダウンロードして読んでいただきたい。
 
  本書の主張を要約するならば、次のようになる。ただし、女性と学歴の関係についてはこの書評では取り扱わないため、高等女学校については触れない。以下は、あくまでも男性の世界に限定されている。
 本書の対象は、「旧国鉄福知山線からはずれ、産業化の大波からとり残されてきた小さな城下町」(11)丹波篠山である。丹波篠山は1748年から6代にわったって青山家6万石(東京の青山通りにその名をとどめている)によって治められ、明治維新を迎えた。
 維新後の明治6年に家督を相続した青山忠誠は、明治13年陸軍上官学校を卒業し、数少ない華族出身の将校になった。彼は旧藩子弟の教育・育英にも強い熱意をもち、「尽忠報国」を目的に明治9年、篠山に「中年学舎」を設置した。この学校は明治11年、多紀郡立の中学校となって青山家の手を離れてのち、明治16年末に火災にあい、廃校となった。しかし、郡内には学校の再興を望む声が強く、有志の寄附金を基本金に、青山家からの経費補助をうけて、明治18年(1885年)、鳳鳴義塾が創設された。この学校は、青山忠誠を塾主とする私立学校であり、中学校の教則に準拠していたが、制度のうえでは各種学校であった。鳳鳴義塾の設立を構想したとき、青山忠誠は「尽忠報国」を信条に、「国家有用の人物を養成」する学校を、具体的には「軍人を養成するの学則を立てる」学校を考えた。こうした塾主の「勤倹尚武」の理念をうけて、漢学者の市瀬禎太郎が鳳鳴義塾の校風をつくりあげた。
 鳳鳴義塾は、軍学校入学者のために準備教育をおこなうことを主要目的としていた。教育内容は儒教的な徳育教育主義であった。主として漢文を教え、英語数学などの教員は欠員が多かった。徳育教育の一環として、独自の学校行事があった。(1)錬磨会、(2)幣取り(へいとり)、(3)武装旅行である。
 しかし、独自の校風を持つ漢学塾としての鳳鳴義塾は、存続が困難になっていった。明治19年の中学令、さらに明治32年の中学令をはじめとして、正系の中学校の整備が進展しつつあった。正系の中学校は、その卒業資格が上級の学校を受験する資格となった。各種学校であった私立鳳鳴義塾は、正規の中学校の資格を持てなかった。学校の独自性を維持するために各種学校として存続するのか、それとも教育内容を普通の中学のように変え、正規の中学校の資格を取得するのか、決断を迫られたとき、鳳鳴義塾には、正規の中学校の資格を取得する以外の道はなかった。ただし、独自の校風を維持するために、財政的な無理を承知で私立中学となった。
 しかし、私立中学としての存続は、慢性的な財政難のために困難となっていった。元藩主青山家は、生活を切り詰めて鳳鳴義塾を支援したが、学校経営には多額の費用がかかり、ついに支えきれなくなった。県立への移管は、青山家の学校経営への影響力が喪失することを意味した。県立鳳鳴中学は、県の管理監督下で普通の地方中学校となった。
 「学歴主義の制度化」とは、「学歴重視のイデオロギーが、学校や企業などの組織体や人々の日常的な生活世界に浸透し、人々の意識や行動を規定し支配していくプロセス」(12)を意味している。私立鳳鳴義塾(明治18〜明治31)→ 私立鳳鳴中学(明治32〜大正王8)→ 県立鳳鳴中学(大9〜昭和23年)という歴史は、「「伝統的文化モデル」の人間形成教育を理念にかかげて出発した、「地方」一私学が、その学歴主義の制度化の波に抵抗しながら、結局はのみこまれていく過程」(12)であった。
 「学歴主義の制度化」は、さまざまな社会層に学歴の重要性を意識させるプロセスでもあった。丹波篠山においても、士族、商人、農民に学歴意識が浸透していった。丹波篠山では、「昭和初期」に学歴主義の制度化が完成した。
  本書は、以上のように主張している。それにたいして私が主張したいことは、次の点に尽きる。丹波篠山は産業化の波に乗り遅れた小さな田舎町であるにもかかわらず、「昭和初期」という早期に学歴主義が成立した。本書の著者たちは、この事実を、学歴主義の波が、丹波篠山のような田舎町にもようやく押し寄せた、と理解した。しかし、その理解は誤っている。丹波篠山のような郡部の田舎町にしては異例に早期に学歴主義が成立した、と理解し、その上で、なぜ丹波篠山に早期に学歴主義が成立したのか、問うべきであった。
 私は遠州横須賀という3万5千石の旧城下町に生まれ育った。丹波篠山6万石と同じように、産業化の波に取り残された町であった。私の個人的経験から確実にいえることは、遠州横須賀では1960年代前半においても学歴主義が制度化されていなかった。郡部においては遠州横須賀のように、1960年代前半においても学歴主義が制度化されていなかった、と思われる。
 丹波篠山において「昭和初期」というきわめて早い時期に学歴主義が制度化されたのは、なによりもまず、丹波篠山においては高等教育とリンクしている中等学校がきわめて早期に設立されたことにある。また、丹波篠山には、教育に関心を有する上級・中級士族がおり、さらに地方名望家がいた。彼らが率先して教育と社会的地位の関係を示したことによって、丹波篠山においてはきわめて早期に学歴主義が制度化した。
 遠州横須賀は、高等教育とリンクした中等教育機関を持たなかった。そのため、高等教育は遠州横須賀の子供にとってinvisibleでありつづけた。ほんの一握りの中学卒業生が進学高校に進学し、大学に行った。しかし彼らは、「いい大学」に行きたいために進学高校に進んだのではなく、中学校で成績上位者は進学高校を受験するという慣例にしたがって進学高校に進んだのであり、進学高校に入った後で、学歴主義的意識を形成した。
 中学校に学歴主義的意識が形成されていなかったため、成績上位者のあいだにも、「手に職」派が層をなして存在していた。1960年代前半の時期、「手に職」派は高等教育とは疎遠であり、職業高校に進学した。「手に職」派が層として存在し、職業高校に進学しているあいだは、職業高校は地域において高い評価をかちえていた。しかし、高度成長の進展とともに、1960年代後半から「手に職」派が職業高校に進学しなくなった。大学のmass universityへの移行につれて、「手に職」派は普通高校に進学し、それから大学に行くようになった。それとともに職業高校は、さまざまな問題を露呈するようになった。
 教育社会学における学歴主義研究は、これまで、不当にも、「手に職」派を無視してきた。「手に職」派は学歴主義研究において正当に位置づけられなければならない。

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(2007年8月24日)



これまで何度かこのHPに書いてきた私の新著『日本的雇用慣行−−全体像構築の試み−−』(ミネルヴァ書房、4,800円)が公刊され、書店に並ぶこととなった。ここでは本の表紙と「あとがき」を掲載しておく。
 「あとがき」に書いているように、私が日本資本主義論を展開したいと思うようになったのは、学部時代に日本資本主義論争を知った時なので、40年ほど前になる。しかし、いつ頃からという明確な記憶はないものの、日本資本主義論争における日本資本主義の論じ方について、講座派、労農派を問わず、さらに大塚史学、宇野理論を問わず、不満を覚えるようになった。そしてそのような不満は、次第に強くなっていった。どういう点に不満を持つようになったのか、きちんと説明しようとするとかなり長い論文になってしまうので、ここで説明する余裕はない。ただ一つだけ、今度の本に直接関係することだけを指摘しておくならば、日本資本主義論争においては、日本の会社とは何なのか、まったく議論されていないことである。これは、論争がマルクス『資本論』を日本にどう適用するかをめぐっておこなわれたためである。『資本論』には、会社という概念は登場しない。
 会社論を組み込んだ日本資本主義論でないといけない、と思うようになった。しかし、これは、言うは易く行いは難し、というもので、具体的にどのように結びつけるべきか、思い悩んでいた。壁のように立ちはだかっていたのは、いわゆる内部労働市場論であった。段階論と企業論を見事に整合させているように見えるいわゆる内部労働市場論を徹底的に批判しない限り、壁は突破できないように思われた。それまでにも私はいわゆる内部労働市場論に批判的ではあったが、批判は中途半端であり、たえず、いわゆる内部労働市場論に足を引っ張られている、という感じがあった。
 私は、野村正實[2001]『知的熟練論批判――小池和男における理論と実証――』ミネルヴァ書房、ついで野村正實[2003]『日本の労働研究――その負の遺産――』ミネルヴァ書房を公刊した。この2冊については、私の耳にも毀誉褒貶が聞こえてきた。この2冊がどのように評価されようとも、私にとっては、いわゆる内部労働市場論と徹底的に対決し、いわゆる内部労働市場と完全に決別するために通らなければならない道であった。事実、この2冊を書きながら、私はいわゆる内部労働市場論、すなわち年功制=独占段階説の非実証性を確信し、書き終わったとき、段階論から完全に自由となった。それと同時に、会社論を組み込んだ日本資本主義論のイメージが明確になった。私は、私の日本資本主義論が描けるであろう、と思った。
 今回出版した『日本的雇用慣行−−全体像構築の試み−−』は、私なりの日本資本主義論を展開する第一歩である。道はなお遠い。急がねば、と気があせる。

『日本的雇用慣行』の「あとがき」

 本書は,日本的雇用慣行の全体像を明らかにしようとする試みであり,私の研究史理解が正しいとすれば,全体像を明らかにしようとする最初の試みである。日本的雇用慣行にかんする研究は数多く,研究とまではいかなくとも日本的雇用慣行に言及した論文や著作にいたっては,無数にある。それにもかかわらず,本書が日本的雇用慣行の全体像を明らかにしようとする最初の試みであると称するのは,それらのほとんどが,日本的雇用慣行の内容を終身雇用や年功制と理解し,その実態や歴史的発生経緯,さらに存続理由を問うてきたからである。
 しかし,日本的雇用慣行が終身雇用や年功制であるといえるのは,男性正規従業員のみである。女性にとって日本的雇用慣行は,まったく異なっていた。1985年の男女雇用機会均等法にいたるまで,日本的雇用慣行は,大卒女性を採用しないことであった。また,短大卒女性を高卒女性と同じ待遇で雇用することであった。採用された女性たちは,事務職,生産職を問わず,短期勤続であった。日本的雇用慣行は終身雇用や年功制である,という理解は,女性を捨象することによって成り立っている。
 これまでの日本的雇用慣行の研究は,はっきりと対象を限定しないまま,実際には製造業(manufacturing)の男性(male)生産労働者(manual worker)のみを論じてきた。いわゆる3Mである。そうした対象設定をする限り,日本的雇用慣行の本質は見えてこない。雇用は経常秩序であり,男性と女性,職員と工員,大卒者と短大卒者・高卒者・中卒者というすべての従業員がそこに組み込まれている。そうした経営秩序を問うことこそが,日本的雇用慣行の研究課題でなければならない。これまでに日本的雇用慣行の全体像を分析した研究がなく,本書が全体像構築のはじめての試みである,というのは,この意味においてである。
 ただし,あらかじめ断っておくことがある。それは,本書が日本的雇用慣行の全体像を描くはじめての試みである,と称しながら,非正規雇用に触れていないことである。私はこれまでずっと,会社にとって,また経済社会にとって,非正規雇用がきわめて重要であることを強調してきた。それにもかかわらず,ではなく,それゆえに,私は本書で非正規雇用に触れなかった。正規従業員のみを取り上げただけで,本書は450ページとなり,300ページ前後が標準的となっている今日の研究書出版事情においては大部となっている。もし本書において非正規雇用を論じるならば,論じなければならない論点が多いため,本書の分量は単行本の限度を越えてしまう。非正規雇用については,本書とは別の著作で論じるべきである,と判断した。
 非正規雇用が組み込まれていないにもかかわらず,本書が日本的雇川慣行の全体像を明らかにする試みであると称しているのは,正規従業員全体を分析する最初の試みだからである。これまでの3Mを対象とした分析視角と比較するならば,正規従業員全体の秩序を分析する本書は,全体像の分析と称してよいであろう,と私は考えた。
 本書は書き下ろしである。それぞれの章を個別論文として発表することも考えたが,個別論文として仕上げるために時間をかけるよりも,本としての出版を急ぐべきであると考え,書き下ろしとした。
 1990年代末から2000年代初にかけて,私は,日本における労働研究の歴史と現状を批判した。それは,2001年の『知的熟練論批判』(ミネルヴァ書房),2003年の『日本の労働研究』(ミネルヴァ書房)として公刊された。『日本の労働研究』を公刊した後,私は次のように考えた。私の労働研究批判を支持する人たちは,さらなる批判の継続を,屋上屋を架す作業と受け取るであろう。私の批判を受け入れない人たちは,これからさらに私がどのような批判をおこなおうとも,私の批判を決して受け入れることはないであろう。労働研究批判はもはや私の研究課題ではない。
 次の研究課題として,限定されたテーマについてインテンシブな実態調査をおこなおう,とは考えなかった。もちろん私は,実態調査を大切だと考えている。また,実態調査は楽しいものでもある。しかし,自分の年齢を考えた時,私の取り組むべき研究課題は,大きなテーマについて問題提起的な見取り図を描くことである,と考えた。そのさい私の念頭にあった大きなテーマは,日本資本主義論である。日本資本主義について問題提起的な見取り図を描きたいという願望は,私が研究者を志した原点でもある。
 中学を卒業した後,私は,新しい制度として発足したばかりの工業高等専門学校(高専)に進学した。5年間の教育で「中堅技術者」−−その養成が高専設立の目的とされていた−−になるはずであった私は,高専の管理教育に反発し,専攻した電気工学も嫌いになり,高専教育からドロップアウトした。社会科学を勉強したいと思い,3年次修了とともに,中途退学した。高専を中退したとき,私は,勉強すべき具体的な社会科学的テーマを持っていたわけではなかった。大学入学後,日本資本主義論争を知った。論争の関連文献を読み進めるなかで,私が大学で勉強するのは,借り物ではない自分なりの日本資本主義論を持つためである,と思うようになった。しかし,気がつけばもう学部4年生になっており,就職活動の時期であった。1970年の新規学卒市場は,高度成長による売り手市場で,探そうと思えば,私でも容易に就職先が見つかるような状況であった。しかし就職しようとは思わなかった。私には,日本資本主義について自分なりの考えと呼べるようなものがなかったからである。研究史と研究状況についての知識が多少あるにすぎなかった。これでは高専を中退して大学に入った意味がない,と思えた。自分なりの考えを持てるよう,研究者になろう,と思った。
 それから37年後の今,私は,私なりの日本資本主義論を描く第一歩を踏みだした。遅々とした歩みと認めざるをえない。しかし,私なりの日本資本主義論を描きはじめるには,それだけの時間が必要であった,と思っている。私は,既存の大理論あるいは中理論に寄りかかった実証研究ではなく,あくまでも手作りの日本資本主義論を展開したいと願ってきた。大会社の雇用慣行を分析した本書は,私なりの日本資本主義論を描く最初のステップである。
 驥は一日にして千里なるも,駑馬も十駕せば,則ち亦た之れに及ばん。この気持ちで,これまで研究を続けてきた。しかし,問題は時間にある。第一歩を踏みだしたばかりというのに,定年の声を間近に聞く年齢となってしまった。駑馬の走りではあっても,急がねば,と強く思っている。
 これまでもそうであったように,本書の執筆・出版にさいしても,さまざまな方のお世話になった。兵藤サ,谷本雅之,川端望の各氏から,第1章から第6章までの草稿にたいしてコメントをいただいた。市原博氏には文献を教えていただいた。資料の閲覧については東北大学図書館と法政大学大原社会問題研究所が協力してくださった。
 ミネルヴァ書房の杉田啓三社長は出版を快諾してくださり,堀川健太郎氏は編集を担当してくださった。
 以上の方々,およびここには名前を記さなかったが,本書の執筆出版に協力
してくださったすべての方に,厚くお礼を申し上げたい。
                             2007年6月1日



(2007年5月1日)

私の新著の初校が終わった。本のタイトルは、野村正實著『日本的雇用慣行−−全体像構築の試み−−』とすることに決めた。出版社はミネルヴァ書房、値段は未定である。本文だけで430頁と、厚いものになってしまった。「MINERVA人文社会科学叢書」の一冊となる。当初、サブタイトルを「全体像の再構築」としようと思っていたが、これまで日本的雇用慣行の全体像が提示されたことはなかったのに、「再構築」というのは、筋が通らないと判断した。予定としては、今年7月に店頭に並ぶはずである。

日本的雇用慣行をテーマとした本は、日本的雇用慣行とは終身雇用と年功制−−場合によっては企業別組合も含める−−である、その起源は1920年代における「内部労働市場」の形成にある、1990年代初頭のバブル崩壊にともなって、日本的雇用慣行は維持されがたくなっている、というように説いてきた。もちろん、起源や成立原理についていくつかのバリエーションがある。しかし、日本的雇用慣行を終身雇用と年功制としてとらえることは共通している。

日本的雇用慣行を終身雇用と年功制として理解することは、一面的である。そこで念頭に置かれているのは男性正規従業員のみである。言うまでもなく、会社には女性従業員がいる。女性従業員を含めて日本的雇用慣行を理解するならば、日本的雇用慣行は、1985年の男女雇用機会均等法以前においては、大卒女性を採用しないことであった。日本的雇用慣行は、短大卒女性を高卒女性と同じ待遇で短期間雇用することであった。

これまで、日本的雇用慣行を論じる論者は、はっきりと対象を限定をしないまま、実際には製造業(manufacturing)の男性(male)生産労働者(manual worker)のみを論じてきた。いわゆる3Mである。そうした対象設定をする限り、日本的雇用慣行の本質は見えてこない。それが私の立場である。雇用慣行は経営秩序であり、男性と女性、職員と工員、大卒者と短大卒者・高卒者・中卒者というすべての従業員がそこに組み込まれている。そうした経営秩序を問うことこそが日本的雇用慣行論の課題でなければならない。これまでに日本的雇用慣行の全体像を分析した研究がなく、本書が全体像構築のはじめての試みとなる、というのは、この意味においてである。

本書は日本的雇用慣行の全体像を明らかにしようとする最初の試みなので、できる限り問題提起的に執筆した。問題提起的ということは、月並みな叙述を排し、これまでだれもおこなわなかった主張をおこなうということである。

具体的にどのような問題提起をおこなおうとしているのか、サンプルとして第4章「「老婆心」の賃金」を公開しておく。ファクト・ファインディングをおこないながら主張を展開しているため、かなりの分量となっている。そのため、第4章全文をここに張り付けることは無理なので、PDFファイルとして公開する。私の主張が説得的であるかどうかは別として、少なくとも月並みなことを主張しているのではない、ということは理解していただけるであろう。

そして、願わくば、ここに公開した第4章を読んだ方が、一人でも多く、面白そうなので買って読もう、という気になっていただければ、と思っている。この願いは、著者として一人でも多くの方に読んでいただきたい、という願いである、というよりは、ミネルヴァ書房にかける迷惑を少しでも減らしたいという願いである。ミネルヴァ書房の杉田啓三社長は、今回も私の原稿の出版を即時無条件で引き受けて下さった。その杉田さんに少しでも恩返しをするために、一部でも多く売れてほしい、と思っている。

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(2007年3月2日)書評「中西洋『日本近代化の基礎過程』

ここに、私が二年前に活字にした書評「中西洋『日本近代化の基礎過程――長崎造船所とその労資関係 1855-1903年――』をアップロードする。『社会経済史学』編集委員会から、発表後二年間はHP上に公開してはならない、と言われていたが、その二年間を過ぎた。

『日本近代化の基礎過程』は、19世紀後半の長崎造船所についての詳細なモノグラフである。私は19世紀後半の経済史・経営史について専門的に研究したことはない。それにもかかわらず書評を引き受けたのは、中西さんが想定している読者には、私のような労働研究者も含まれているはずだと思ったことと、私が断ると、この本についての書評がまったく出なくなる恐れがある、と思ったからである。私に書評依頼がきたのは、本が出版されてから一年たった頃であった。経済史・経営史・労働史の専門家に依頼して断られ続けたため、やむなく私に依頼することになったのであろう、と思った。専門家がこの本の書評を逃げるという気持は理解できる。先行研究をいっさい無視して詳細な事実を提示し、さらに結論を述べる部分を欠いているのであるから、通常の書評は無理である。

私が断ると、この本についての書評がまったく出なくなる恐れがある、と思ったことは、間違いであった。『経営史学』に市原博氏の、東京大学『経済学論集』に鈴木淳氏の書評が掲載されたからである。しかし、まったくの杞憂であったとはいえない。この本の価値を考えると、今のところ3本しか書評が出ていないことは、少なすぎるし、また、ある労働史研究者から、この本の書評を依頼されたが断った、と直接聞いた。専門家が逃げ腰であることは間違いない。

中西さんは最初、長崎造船所の実証研究と「社会政策」・「労働問題研究」の研究史にたいする方法的批判を並行しておこなっていた。私が中西さんからもっとも強い影響を受けたのは、この時期の研究からである。中西さんはその後、1981年の『世界』2月号に「友愛主義宣言」を発表し、長崎造船所の実証研究を中断した。それから、「友愛主義宣言」の延長上の仕事と、大韓労総史研究、「給料袋の国際比較」プロジェクトをおこなった(中西さんの業績については、法政大学『社会志林』50巻4号、2004年3月)。

「友愛主義宣言」およびその延長上の仕事については、私には評価する能力がない。「友愛主義宣言」およびその延長上の仕事と実証研究とが中西さんの中でどのように結び付いているのか、私は質問したことはない。私の考えでは、その二つは、まったく無関係とまでは言えないにしても、基本的には別々のユニットだろう、と思っている。

私の書評は、中西さんによる「社会政策」・「労働問題研究」の研究史にたいする方法的批判を中西さん自身の長崎造船所研究に適用すると、長崎造船所研究が不どのように見えるであろうか、というものである。若いときの中西さんは、大河内社会政策論と宇野段階論の影響を強く受けていた。中西さんが提唱した政策論的分析方法は、その二つを巧みにミックスしたものである。しかし中西さんは、『日本近代化の基礎過程』執筆の過程で、政策論的分析方法を放棄するに至った。そのこと自体は、実証研究にとってプラスであった。方法をリジッドに適用すれば、たしかに明快な歴史像を提示できるが、そうして提示された歴史像は生硬で厚みの欠けたものになるだろう。問題は、政策論的分析方法を放棄した後、それに代わる何らかの方法的視点を構築し得たかにある。『日本近代化の基礎過程』を読んだ限りでは、リジッドな方法を放棄したにとどまり、それに代わるものを提示していない。そのことが、下巻の最後に予定されていた「結語」が書かれなかった最大の理由であろう。

以下、私の書評を再掲する。

中西洋『日本近代化の基礎過程――長崎造船所とその労資関係 1855-1900年――』(上)1982年、4600円(中)1983年、4800円(下)2003年、26000円、東京大学出版会
『社会経済史学』70巻5号,2005年1月

 本書は創立時から20世紀初頭までの長崎造船所を対象としたモノグラフである。本書の目的は、一経営体の歴史に内在することによって、中西としての「私の日本資本主義論」(上、はじめに)を展開することにある。20世紀初頭までを対象としているにもかかわらず「私の日本資本主義論」が可能なのは、「日本資本主義の体質」がほぼこの時期に形づくられたからである(上、はじめに)。
 本書を書評することは、容易ではない。第一に、上中下の3巻からなる本書は全部で1700頁を越えており、しかも本書が扱っている時期において長崎造船所の経営主体が徳川幕府、長崎府、工部省、三菱と変遷した。本書を正確に要約しようとすれば、それだけで書評に与えられた枚数を大幅に超過してしまう。
 第二に、19世紀後半の長崎造船所にかんする中西の作業はまだ完結していない。下巻の「あとがき」において中西は、別巻『三菱会社の生成・展開・解体:1871−1885年』の刊行を予告し、上中下巻にこの別巻を合わせた計4巻がセットになっている、と記している。したがって書評は、本来ならばこの別巻の刊行を待ってからおこなわれるべきである。
 第三に、上中下巻のそれぞれの刊行年は1982年、1983年、2003年である。つまり上巻と中巻はまとめて公刊されたが、中巻と下巻との間に20年もの時間がある。中西はこの20年の間、近代社会科学の根本的検討によって「近未来社会」を構想するという思想的作業をおこなってきた。本書下巻の刊行は、中西が実証研究に立ち戻ってきたことを意味している。いったん中断したテーマに再び戻ることは、簡単なことではない。たんに史料やデータに対する感覚を取り戻すことが容易ではないというにとどまらず、そのテーマにかんする見方が変化しているのが通例だからである。事実、上中巻と下巻との間には叙述スタイルの変化にとどまらない大きな違いがある。上中巻と下巻とのこの違いは書評を困難にしている。
 きわめて粗雑になることを承知の上で本書の内容をごく短くまとめてみよう。
 第1章 幕営長崎製鉄所の創設 1855-67年。船舶の蒸気機関修理工場として発足した幕営長崎製鉄所は、機械制工場を建設するという幕府の明確な意図のもとに設立されたのではなく、海軍建設にともなう諸道具を購入するという意識で設立された。工場のレイアウト、設備、部品はすべてオランダから輸入し、工場建設そのものもオランダ人技術者にすべてがまかされた。経営管理者層はオランダ人と幕吏が就任した。しかし幕吏は再生産機構としての工場の本質を理解しえなかった。経営管理者の未成熟に比べ、賃労働者は工場労働に適合的であった。幕末日本は封建的経済構造がもはや維持されないような商品経済の発達を見ながら、絶対王政も成立しないという「過熟封建制」であり、職人ギルドが欠如していたため、ギルド規制が工場秩序と衝突しなかった。また、熟練職人の熟練はかなり高かったので、工場労働に対応できた。しかし、現場監督者が不在であったことが示しているように、労働者の管理監督は十分なものではなかった。幕営期の労働者数は150人から300人程度であったと推測される。
 第2章 明治維新下の長崎製鉄所 1868-71年。長崎製鉄所の明治維新は、長崎奉行の逃亡とともに始まった。長崎製鉄所は長崎府の管理下に入るとともに、旧地役人の提案にそって独立採算企業となった。長崎製鉄所は雑業的経営多角化に乗りだし、小銃など諸器械の製作、鉄橋製作など建設工事、精米所の開設、活版伝習所の設置をおこなった。経営管理にとっての大きな変化として、それまでの長崎奉行が製鉄所の長を兼任する形から、専任の総括責任者として「頭取」が任命された。管理組織の名前は変わったが、事実上は幕営期の管理組織とはほぼ同じであった。管理職への給与は世襲的家禄からの転化物であり、半封建的なものであった。労働者の基本的労働条件は幕営期以来の旧慣が維持された。生産職場の命令系統についても、フォーマルな役付け職工は不在であった。労働者の賃金は、「工場内請負制」で支払われていた。労働者と職員との唯一のコミュニケーションは「請負」単価の折衝であり、職員と労働者は別世界の存在であった。しかし「商人的工場経営」は経営が立ちゆかず、日ならずして官業に戻っていった。
 第3章 工部省長崎造船所の盛衰 1871-84年。長崎造船所は1871年に長崎県庁から設立まもない工部省に移管された。長崎造船所は移管後10年間は大規模な設備投資の効果もあり順調に発展した。74年からは長崎造船所のトップに、アメリカとイギリスで造船技術を学んできた日本最初の専門的な造船技師が任命された。しかし工部省の下での長崎造船所は組織としての職制を持たなかった。さらに工部省は近代経営体としての長崎造船所の会計制度を構築しえなかった。そのため長崎造船所は営業利益を上げることが主動機となりえなかった。生産現場においては「小頭」など現場監督者の制度ができあがった。生産労働者の雇用形態も「人足」「臨時雇」という非正規労働者と正規労働者が区分されていた。しかし正規労働者といえども「職工」にすぎず、いまだ経営の構成員としては認められていなかった。長崎造船所は82年83年と急激な縮小に転じ、大幅な赤字を計上した。ここに三菱への払い下げが浮上した。
 第4章 三菱長崎造船所の発展 1884年-1903年。三菱資本のもとで長崎造船所は従業員は身分階層的に編成された。「社員」ないし「使用人」、「場所限傭員」、「職工・人夫」であり、「職工・人夫」は経営の構成員とは見なされず、いわば身分制の外におかれていた。長崎造船所は管理者層として、東京大学と東京工業学校の卒業生を卒業直後に採用するという採用方式を始めるようになった。1900年頃からは「使用人」にたいする一斉増給が常態化した。また1900年頃から会計システムと工事指令組織が近代化した。工場の作業は主として親方請負でなされていた。親方である小頭・組長は、同時にまた現場監督者でもあった。会社はこの重要な地位にある小頭・組長に対して「年末・中元手当」を出して会社側に引き寄せようとした。また1897年には「三菱造船所職工救護法」が制定され、会社と職工の疎遠な関係に転機がもたらされた。しかし賃上げと職工救護法によって労働問題に対処しようとした三菱造船所長・荘田平五郎の方針にもかかわらず、1903年に鉄工900余名の同盟罷工という長崎造船所のはじめてのストライキが起きた。さらに日露戦後の1907年に1903年争議よりもはるかに組織だった木工の同盟罷工が発生した。このストライキを受けて、会社は1909年に職工救護法を抜本的に改訂し、「職工救済規則」を制定した。それは相互扶助を職工の権利と会社の恩恵に分割解体することであった。
 中西が本書を執筆した目的は、中西としての「私の日本資本主義論」を持つことであった。しかし本書を通読しても、中西としての「私の日本資本主義論」は明確にならない。中西は、本文中のところどころに「日本資本主義の体質」に言及しているものの、「私の日本資本主義論」を明示的には書かなかった。中西は中巻において、下巻の「略目次」を予告していた。それによれば、下巻は「結語 日本資本主義の特質」によって締めくくられるはずであった。しかし公刊された下巻の末尾には、予告された「結語」がなく、代わって「補章 近代日本の<人・企業・国家>−−長崎造船所の後景」がおかれている。この「補章」は主として幕末維新期の思想家や政治家の思想を検討したものであり、あくまでも「長崎造船所の後景」にすぎない。長崎造船所の研究から得た知見をもとに「日本資本主義の特質」を論じているのではない。
 なぜ中西は、主張を明確にするはずであった「結語」を書かなかったのであろうか。この点について中西はいっさい説明していない。推測するに、中西が「結語」を書かなかった理由は、中西が長崎造船所の歴史分析に取り組んでから本書下巻を公刊するまでの40年という時間にあるように見える。このあまりに長い時間の中で、中西の「私の日本資本主義論」も変わらざるをえなかったと思われる。
 40年ほど前の中西は、「終身雇用」や「年功賃金」という「日本的労資関係の原型」の成立は1930年代である、と考えていた。その当時に広く使われていた用語を用いるならば、「国家独占資本主義」の成立とともに「日本的労資関係の原型」も成立する、というのである(中西「いわゆる「日本的労務管理」について」隅谷三喜男編『日本の労使関係』日本評論社、1967年)。しかしその後「原型」ついて、中西は見解を大きく変えた。本書中巻は1983年に公刊されたが、そこで予告された下巻「略目次」によれば、「第4章 三菱長崎造船所の成立 1884-1900年」の第3節は「日本的労資関係の原型」と題されることになっていた。中西は、1900年までに「日本的労資関係の原型」が見られる、と考えていたのである。この「日本的労資関係の原型」の内容は中西が60年代に考えていた「日本的労資関係の原型」と同じ内容なのであろうか。もし同じだとすれば、中西は年功制や終身雇用などの「日本的労務管理」の成立を1930年代から1900年前後までさかのぼらせたことになる。「日本的労資関係の原型」が19世紀末か1930年代かという問題は、たんに「原型」の成立がどこまでさかのぼることができるのかという問題ではない。「日本的労資関係」の成立をどのような論理で説明するのか、という問題である。通説である1920年代成立説は、「独占段階」説であり、資本主義のある一定の発展段階(「独占段階」)になるといずれの国においても、程度の差はあるにしても、いわゆる「日本的労資関係」の特質と考えられている現象が現れる、というものである。すなわち日本特殊性の否定である。中西のかつての「国家独占資本主義」説も、基本的には「独占段階」説と同じ発展段階説である。しかし19世紀末に「日本的労資関係の原型」が成立したとすれば、発展段階説とはまったく別の説明が必要となる。しかし中西は、新しい説明をおこなわなかった。2003年に公刊された下巻において中西は、第4章第3節を「近代的労資関係の構築」と変え、「日本的労資関係の原型」を論じなかった。なぜ節タイトルを変えたのか、中西はなにも述べていない。
 現在の中西が「日本的労資関係の原型」の成立をいつと考えているのかはわからない。論じるべきテーマを論じなかったのであるから、中西は「日本的労資関係の原型」の成立時期と成立論理について確信ある見解を持っていないと考えるべきであろう。そして、「日本的労資関係の原型」の成立時期が確定できない以上、「結語 日本資本主義の特質」は書かれないであろう。
 中西が「結語 日本的労資関係の特質」を書かなかったもうひとつの理由として、中西の「労資関係」の研究方法が指摘されるべきだと思われる。中西の最初のまとまった仕事は、日本の「社会政策・労働問題研究」への厳しい方法的批判であった(中西『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東京大学出版会、1979年)。中西は研究史の批判的検討を通して、正しい方法論として「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」を提唱した。中西によれば、一経営体を対象とした「経営史的分析方法」によって具体の中から特殊と一般を析出できる。しかし「経営史的分析方法」だけでは連続する歴史過程を一義的に切断できないため、国家の労働政策を分析する「政策論的分析方法」が必要になる。こうした中西の方法的提唱は、労働問題研究に反響を呼んだ。しかしこの提唱は、抽象的な次元にとどまっている限りでは無矛盾的に見えるが、具体的分析に適用することが困難である。
 中西が本書の執筆を始めた20年以上前においては、中西はもちろん「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」とが無矛盾的に適用できると考えていた。そのことを端的に示しているのは、上巻と中巻のサブタイトル「長崎造船所とその労資関係:1855-1900年」である。このサブタイトルにある1855年は、やがて幕営長崎製鉄所の設備となる機械類を幕府がオランダに発注した年であり、ここから長崎造船所の歴史が始まる。それでは分析の終期とされている1900年はどういう年であろうか。本書を読む限り、1900年の三菱長崎造船所では、特記すべき労資関係上の出来事は存在しない。中西はこの年に「工業会計」が確立したことを指摘している(下、544-55)。しかし、「工業会計」の確立をもって「長崎造船所とその労資関係」の叙述を終了させるのは、あまりにも無理があるし、中西も「工業会計」の確立が画期的であったと強調しているわけではない。1900年が重要である理由は、本書を読んでもわからない。
 中西は三菱長崎造船所の分析から1900年の重要性を見いだしたのではない。中西は、「政策論的分析方法」にもとづいて、1900年に成立した治安警察法を日本資本主義の画期とした(中西「第一次大戦前後の労資関係」隅谷三喜男編『日本労使関係史論』東京大学出版会、1977年)。つまり中西は、本書の執筆を始めた時点では、「経営史的分析方法」にもとづいて叙述をはじめ、「政策論的分析方法」にもとづいて分析を終えることができると考えていた。中西は「経営史的分析方法」と「政策論的分析方法」との予定調和的な一致を信じていたと思われる。しかし、議会において重要な労働立法が成立したことをもって経営史が時期区分されるならば、すべての企業の「労資関係」が、それぞれの経営内事情とは無関係に、1900年で一斉に時期区分されることになる。これは事実上の「経営史的分析方法」の否定であろう。
 中西は下巻の執筆過程において、「経営史的分析方法」ではじめた叙述を「政策論的分析方法」にもとづく時期区分で終えることは無理であると考えた。そのことは下巻のサブタイトル「長崎造船所とその労資関係:1855-1903年」に現れている。すなわち下巻においては分析の終期が1903年とされており、上下巻のサブタイトルの1900年と異なっている。1903年には重要な労働立法はない。中西は労働立法によって時期区分することをやめたのである。「政策論的分析方法」は放棄された。しかしもともと中西は、「経営史的分析方法」では時代区分が一義的にはできないから「政策論的分析方法」が必要である、と主張していた。「政策論的分析方法」を放棄した場合、中西は何を指標として時期区分をするのであろうか。中西はこの問題について答えを出さなかった。それだけではない。中西は時期区分の重要性を否定するかのような見解を書き記すようになった。
 中西は、本書の分析を日清戦争前後で終えるのか、日露戦争前後で終えるべきなのか、と問い、日清戦後は日露戦前であるから時期区分が困難であると書いた後、「そもそも歴史を区切るということは、専ら人為の操作であって、歴史自身の関り知らぬことである」(下、933)と断言している。かつての中西は、「歴史を区切る」という「人為の操作」こそが歴史研究の主たる課題であると主張していた。そのために「政策論的分析方法」を提唱した。中西は、「政策論的分析方法」の放棄とともに、時期区分こそ重要であるというこれまでの主張をも放棄したかのごとくである。
 下巻のサブタイトルによれば、分析の終期は1903年である。中西はなぜ1903年が終期となるのか、説明していない。本文を読むと、1903年に鉄工900余名による同盟罷工が起きている。三菱長崎造船所の最初のストライキであり、中西はこのストライキを「労資関係」の画期としたようにも見える。しかし中西は、1903年同盟罷工が重要だとは主張していない。4年後の1907年に木工の同盟罷工があり、中西はこのストライキを「歴史の新しい段階への推転を予告するもの」(下、916)と評価している。事実、1907年争議の後、親方請負が廃止され、会社の直接管理となった。したがって、中西の評価にしたがうならば、1907年が時期区分の指標となるべきである。それにもかかわらず中西が説明もなく1903年を分析の終期としたのは、中西の時期区分への関心が低下していることを示している。
 中西が20年前に中巻に引き続いて下巻を公刊していたならば、下巻の内容は相当に異なったものとなっていただろう。そこにおいては「結語 日本資本主義の特質」も書かれ、読者は中西の積極的な主張を聞くことができたであろう。その意味においては、20年の時間はマイナスとなっている。
 しかし別の意味においては、本書とりわけ下巻はきわめて重要な研究書である。中西が整理した形で提示している詳細な史料が、これまでの研究ではかえりみられなかった重要な事実をあきらかにしているからである。たとえば、本書は管理者層・小頭・職工の出自、処遇を、すなわち経営身分制の実態を詳細に明らかにしている。管理者層については19世紀末に日本的労働慣行が成立していた。高等教育機関の学生を卒業と同時に採用する新規学卒採用、管理者層の一斉昇給、賞与制度である。請負親方でありかつ現場監督者であった小頭は、毎年の昇給と手当支給という形でいわゆる日本的労働慣行のある部分が適用されていた。並職工はこうした日本的労働慣行とは関係なかった。
 本書が明らかにした経営身分制の実態は、管理者層にいわゆる「日本的労務管理の原型」が存在したことが実証された、と矮小化されてはならない。経営身分制の構造そのもが「日本的労務管理の原型」と考えるべきである。戦前においてはもちろん経営身分制が存続した。そして通説的理解では、敗戦後の経営民主化運動によって経営身分制は廃止されたといわれている。しかしそうではないのではないか。かつて存在した経営内における職員層と労働者層との差別ラインが、戦後は正規従業員と非正規従業員との差別ラインとして形を変えて存続しているのではないか。また、企業内における女性差別も、形を変えた身分制ではないか。そのように考えるならば、本書が詳細に明らかにした経営身分制は、今日まで続く「日本的労務管理の原型」である。私は、この「原型」をふまえて戦後日本企業の経営秩序をどのように理解すべきか、あらためて考える必要を感じている。
 これにとどまらず、本書の豊富な史料は、いくつかの重要な点で労働史研究の再考を迫っている。中西は「私の日本資本主義論」を明示的には論じなかった。おそらく、中西の提示した資料を素材にして、研究者一人ひとりが「私の日本資本主義論」を書くべきなのであろう。



(2007年1月24日)「ベースアップ」という用語を廃語に

 いわゆる春闘が本格化してきた。いわゆる、と書いたのは、「春闘」という用語には、党派性がともなっているからである。連合が成立する以前、総評は「春闘」を、同盟は「賃闘」をおこなっていた。したがって用語を厳密に使うならば、「春闘」は総評系組合の春の賃上げ闘争に限定される。しかし、春の一斉賃上げ闘争は1955年の総評系の8単産共闘からはじまったため、総評同盟を問わず、春の一斉賃上げ闘争を指す言葉として「春闘」という」用語がマスコミで用いられるようになった。同盟系の組合にとっては大変遺憾な事態であった。総評と同盟が一緒になった連合では、「春季生活闘争」という用語を正式に使っている。
 春闘については組合側も日経連(経団連)側も宣伝部パンフレットを出しており、また春闘に触れた研究書や研究論文も数多い。それにもかかわらず、春闘については、決定的な情報が欠けている。それについては、ここでは論じない。ここで述べておきたいことは、賃金用語のいい加減さである。
 報道によれば、今年のいわゆる春闘では、景気の回復にともなって組合側は「ベースアップ」を要求し、会社側は、「ベースアップ」はしない、従業員には賞与で報いる、と答えている。しかし、「ベースアップ」とは何か。「ベースアップ」について、社会的に合意された定義は存在しない。もし期末試験で、「ベースアップとは何か、ベースアップと定期昇給との違いを述べよ」という問題が出されたら、「ベースアップについて社会的に合意した定義は存在しない。したがってベースアップと定期昇給との区別もわからない」という解答が正解である。Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97
で「ベースアップ」の定義を知った人も多いと思われるが、残念ながら、「ベースアップ」についてのWikipediaの解説は、正確ではない。それは、Wikipediaの執筆者のせいではない。
 「ベースアップ」という頻繁に使われる用語がなぜわけのわからない言葉になってしまったのか、これまで本格的に論じられたことはない。その理由は、個々の会社、個々の組合、個々の研究者が勝手に「ベースアップ」を定義し、あたかも「ベースアップ」は明確な概念であるかのように「ベースアップ」という言葉を取り扱ってきたからである。「ベースアップ」という用語がわけのわからない言葉であるという認識そのものが欠如している。私は、「ベースアップ」という言葉を廃語にすべきだと思っている。
 このように言っても、私が何を主張しているのか理解していただけないと思われるので、今年夏に出版予定の私の書き下ろし本『日本的雇用慣行』の「補論4-1 昇給とベースアップ」をここに掲載しておく。HPに載せるにはかなり長い補論であるが、私の説明の仕方が悪いというよりは、「ベースアップ」という用語があまりにも混乱しており、その混乱の由来を説明すると、この程度の長さになってしまうのである。お断りしておくと、図表がなくても十分に分かると思われるので、図表は省略している。


補論4-1 昇給と「ベースアップ」

1 定期昇給と「ベースアップ」にかんする用語説明

 大会社に人就職した新規学卒者は、入社した一年目は初任給を受け取る。その後は、毎年の賃上げによって、勤続年数とともに賃金が上がっていく。賃上げには定期昇給と「ベースアップ」がある。
 以上のように書けば、おそらく異論は出ないであろう。しかし、「ベースアップ」とは何であり、定期昇給とどう違うのであろうか。定期昇給、「ベースアップ」という言葉は、毎年の春闘に関連してマスコミにおいても頻繁に使われており、日本社会に完全に定着している言葉である。しかし、ここでもまた賃金用語の混乱がある。
 かつて氏原正治郎([1961]『日本の労使関係』117-18)は、昇給と「ベースアップ」について概念が混乱していることを指摘し、次のように記した。
「昇給の定義は、昇給について書かれた論文の数ほどあるのではないかとさえ思われる。これらの用語例のすべてに共通している一般的性質といえば、特定の企業の従業員の基本給が改訂されるというぐらいではなかろうか、とさえ思われる、ところが、基本給の改訂は、いわゆる昇給によってだけ行なわれるのではない。通常、ベース・アップと呼ばれる方法によっても行なわれる。そこで、昇給による基本給改訂か、ベース・アップによるそれかということで、二者択一の形で論議されてきた。しかし、この両者が二者択一であるかどうかも、昇給、ベース・アップの内容がまちまちだから、よくわからない。」
 昇給と「ベースアップ」という用語が「よくわからない」ものになってしまった理由として、氏原は次の点を指摘した。(1)最初は、会社による賃金の一方的決定が昇給であり、団体交渉による賃金の決定が「ベースアップ」であるとされた。しかし、昇給も団体交渉によって決定されることが慣例となり、このような区分は無意味になった。(2)次に、給与総額を従業員数で割った「平均賃金」を上げないで従業員個々人の賃金を引き上げることが昇給で、「平均賃金」を引き上げることが「ベースアップ」であるという解釈が生まれた。しかし、雇用が安定し、比較的高額の賃金を取っていた労働者の退職が減ったことによって、退職した労働者の賃金を原資にして従業員個々人の賃金を上げるという意味での昇給は不可能になった。その結果、昇給をおこなうには「平均賃金」の引き上げが必要となり、「ベースアップ」と区別できなくなった(氏原[1961]118-21)。
 氏原の指摘は、それ自体としては正しい。しかし、昇給と「ベースアップ」の用語の混乱は、以上のような氏原の指摘以上にこみいっている。
 今日においても「ベースアップ」という言葉に統一的な理解が存在しないことは、いくつかの辞典の「ベースアップ」の項目解説をみれば、一目瞭然である。「ベースアップ」の項目解説を引用しよう
(1)大河内一男編『岩波小辞典 労働運動 第2版』(岩波書店、1973年):「個別企業の賃金支払総額を、従業員総数または組合員数で割った平均賃金をベース賃金といい、これの引上げ幅をベース・アップという。第二次大戦後の日本では、労使間の団体交渉で賃金水準を決める際、このベース賃金を用いるのが慣行となってきた。」
(2)日本経済新聞社編『賃金用語辞典』(日経文庫、1978年):「労働力の特定の銘柄、すなわち、同一の学歴、年齢、勤続、能力、職務にある者に対してその賃金を引き上げる措置をいう。これに対して昇給とは、これらの銘柄の向上があった場合もそれを評価して行われる賃金増額である。ベース・アップと昇給とを同時に行う企業が多いため、混同されることが多いが、賃金管理上では明確に区分することが必要である。」
(3)日本生産性本部労働部『労使関係用語の手引』(日本生産性本部、1993年):「「賃金引上げ」という意味と、「ベース・アップ方式」という意味の二つがある。基準内賃金の引上げは、戦後の賃金・物価政策に重大な影響があり大きな課題であったが、1946年末頃から、官公労を中心に予算単価引上げをベース・アップと呼ぶことが定着した。厳密には、「賃金表の書き換え(across-the-board wage increase)」がベース・アップであって、年次昇給部分を含まない。一般にベース・アップはその引上げ額又は引上げ率の平均値で示される。「ベース・アップ方式」とは日本独自の「平均賃金引上げ方式」のことである。職種・年齢等で賃上げ額は異なっているのに、その個々の異同をいわずに平均で済ませる。個別グループ(年齢・勤続年数・学歴等のグループ)毎に、賃金引上げ額ないし最低賃金水準や標準賃金水準を要求するのを個別賃金要求方式と呼び、ベース・アップ方式に対置する。」
(4)日本経団連労働政策本部『人事労務用語辞典第6版』(日本経団連出版、2001年):「和製英語で、賃金曲線上の昇給ではなく、賃金曲線(昇給曲線)そのものを上に移動させ、賃金表を書き換える昇給のこと。経済や企業が成長せず、インフレもなければ、賃金上昇は賃金曲線上の昇給、つまり定期昇給か昇格昇給しかなくてよいわけだが、経済や企業が成長して豊かになると、その分の反映として、賃金全体の水準も引き上げられることになる。わが国にベースアップが定着したのは、所得倍増政策の時代からといわれる。」
(5)花見忠/日本労働研究機構編『人事・労務用語辞典』(日経文庫、2001年):「賃金改訂分のうち、物価上昇分や従業員の生活向上分を目的とした賃上げ分をいう。」
(6)伊東光晴編『岩波現代経済学事典』(岩波書店、2004年):「賃金表の書換えによる一斉賃上げ。第2次大戦後の日本では、インフレに対抗して実質賃金水準を維持するために、労働組合は賃金の一斉引上げを要求した。日本の大企業や公務員には戦前から定期昇給制度の慣行があって、毎年4月に既定の賃金表・俸給表に従って従業員の給与を引き上げる慣行があった。これに対して、既定の賃金表・俸給表そのものの書換えによる一斉賃上げを、ベースアップ(ベア)という。」
 これらの辞典項目を見ると、「ベースアップ」とは「賃金」を引き上げることである、という点では共通しているものの、それ以上の共通性があるとは言いがたい。それぞれの辞典における説明−−「平均賃金」の引き上げ、「賃金表の書き換え」、「物価上昇分や従業員の生活向上分を目的とした賃上げ分」など−−が同じものとはいえない。なぜこのような混乱が生じているのか、これまで分析されたことはない。氏原を例外として、賃金用語が混乱しているという事実そのものが認識されてこなかったのであるから、賃金用語が混乱するようになったプロセスが分析されなかったのは、当然のことである。
「ベースアップ」という言葉について、結論を先に述べるならば、まずはじめに「ベース」という用語が1947年に使われはじめ、その数年後に「ベースアップ」という用語が誕生した。「ベース」という言葉そのものが混乱した用語であったため、「ベースアップ」という用語もまた、混乱したものであった。さらに、1954年の電気産業争議にたいして中央労働委員会が示した調停案が「ベースアップ」概念をよりいっそう混乱したものにした。それ以降、労働関係者が各人の勝手な解釈で「ベースアップ」という用語を使い、今日に至っている。

2 官公庁の「1600円水準」

 1947年7月、物価統制の一環として政府は「工業平均1,800円」という賃金水準計算を発表した。「ベース」という用語の誕生は、これを直接の契機としていた。この「工業平均1,800円」は、それに先立つ官公庁の「1600円水準」と強く関係していた。官公庁の「1600円水準」は、それ以前の官公庁「600円水準」と官公庁「平均月収(税込)1,200円」という歴史の流れの中で生まれたものであるが、官公庁「600円水準」と官公庁「平均月収(税込)1,200円」を含めて説明しようとすると、話がきわめて複雑になってしまうため、ここでは「工業平均1,800円」とその直接的な前史である官公庁の「1600円水準」に限定する。
 敗戦直後における政府職員の給与は、きわめて多くの給与項目からなっていた。戦争中、本俸が改訂されないまま、実質的な俸給の引き上げが諸手当の新設や増額によっておこなわれたからである。敗戦直後の俸給、給与の関係法規は131になっていた(大蔵省財政史室[1980]『昭和財政史――終戦から講和まで――』第10巻、611)。複雑な俸給・給与管理を一元化するために、1946年6月25日、給与全般を担当する部局として、大蔵省内に給与局が設置された。大蔵省給与局は、1949年6月1日、人事院にその役割を譲り、廃局となった。およそ3年間存続したにすぎない。しかし大蔵省給与局は戦後労働史に独自の存在感を持った。後に三公社五現業として分離されることになる職員を含め、政府職員の給与を一手に担当していたからである。
 1947年の2・1ゼネスト挫折後、中労委は、2・1ゼネストの原因となった官公庁の給与問題を話し合うため、政府と官公庁組合に対して官公吏待遇改善委員会準備委員会の設置を働きかけた。その結果、2月28日に第1回会議が開かれた。暫定給与については小委員会で検討することになった。4月8日の小委員会で政府側は「1500円水準案」を提示した。「1500円水準案」は4月15日に労使の合意に達した(『中央労働時報』1947年5月25日特別号、6-9)。
 本格的な官公吏待遇改善委員会の立ち上げには人員構成問題などで時間がかかる恐れがあったため、官公吏待遇改善委員会準備委員会が引き続き給与問題の検討にあたることになった。そのさい、なるべく早く労働不安を解消したいという政治的な考慮から、給与体系と給与水準の議論を切り離した。そして、給与体系については合意ができなかったが、給与水準については5月7日、政府提案の「1600円水準」が組合側の了承を得た。
 政府代表と組合側代表との5月7日の「覚書」には、「基準労働賃金1600円の給与水準」と書かれていた。5月5日付の大蔵省給与局の「1600円水準の資料」には「平均月収を1600円とすれば」と記されているので、
「1600円水準」=「基準労働賃金1600円」=「平均月収」1600円
ということになる。(『中央労働時報』1947年6月15日号、5-7)
 ところで、「覚書」には「基準労働賃金とは4月15日付確認事項の内容に基くものである」との註がつけられている。「4月15日付確認事項」における「政府の賃金構成」は、いわゆる電産型賃金体系に類似した「賃金構成」で、「賃金」は「基準労働賃金」と「基準外労働賃金」(「超過労働賃金」と「特殊労働内賃金」)で構成される。したがって「平均月収」は、通常の意味での月収ではなく、特殊な意味で使われていることに注意しなければならない。

3 「ベース」、「ベースアップ」という用語の誕生

 官公庁の「1600円水準」が決まってから2カ月後の1947年7月5日、政府はインフレーションを抑え込みと賃金安定を一挙にはかるために「新物価体系」を発表した。それは、「わが国の経済がほぼ正常であったと認められる昭和9年から同11年(基準年次)の価格水準の約65倍を限界として、基礎的な価格の安定帯を設ける。基礎的な物資の供給者価格が安定帯を上廻るときには、原則として、価格調整補給金によつて、その需要者価格を安定帯の限界まで引下げる」(1947年7月5日経済安定本部発表「新価格体系の確立について」、以下、「平均賃金」「給与水準」にかんする政府発表文書は、物価庁[1947]『昭和22年新価格体系設定に関する資料集』10-23から引用)という内容であった。そして「鉱工業品の価格は、生産配給の施策に照応して、原則として原価主義によってこれを定める」とされた。賃金はもちろん原価の一部なので、賃金水準は「原価主義」にもとづく価格算定に含まれる。そしてその水準について、「工業総平均賃金」は「月1,800円」とされた。なぜ「工業総平均賃金」が「月1,800円」なのかについて、経済安定本部は次のように説明した。
「1 本年6月当時の全国工業平均賃金は1,600円弱と推定せられた。
2 右の賃金水準をきそとして、公定価格改訂などによって生ずる家計に対する影響を緩和するために、200円のマーヂンをみこんで1,800円とした。」(1947年8月経済安定本部物価局「物価賃金に関する若干の問題」)
 しかし、この説明はきわめて疑わしい。「全国工業平均賃金は1,600円弱」と推定する根拠はまったく示されていない。それだけではない。「新物価体系」発表に先立つ2カ月前に、先に見たように、官公庁の「1,600円水準」が決められた。この時に大蔵省給与局長であった今井一男は、「新物価体系」の算定に含まれる賃金水準と官公庁の「1600円水準」との関係について、後年、次のように証言している。
「この構想、この計算(「新物価体系」の計算を指す−−野村)を進めるには、まず基礎となる賃金ベースが必要である。その賃金ベースには、わが国で団体交渉で決まった中で最も新らしいもの、という条件がついている。こうなると、われわれの1,600円ベースしかない。まるでこの1,600円ベースの成立を待ちかねていたような格好である。」(今井[1983]『実録 占領下の官公労争議と給与――大蔵省給与局長の回想――』266-67)
 今井の説明によれば、「新物価体系」の「工業総平均賃金」1,800円は官公庁の「1600円水準」に200円のマージンを見込んだものということになる。経済安定本部は「全国工業平均賃金は1,600円弱」という推計の根拠をまったく示していないので、今井の説明が正しいと思われる。
 ただ、今井の説明は後年の回想なので、不正確な言葉づかいをしている。「新物価体系」の計算時に「賃金ベース」という言葉はなかったし、「1,600円ベース」という用語もなかった。あったのは「1600円水準」である。
 それはともかくとして、このようにして「工業総平均賃金」1,800円が決められた後、自動車製造業、船舶製造業、電気機械器具が製造業など鉱工業37業種ごとに、きわめて乱暴な算定方法によって、「暫定業種別平均賃金」が算定された(くわしい算定方法については、物価庁[1947]65-79)。最高は船舶製造業と貨物運送業の2,441円、最低は製糸業の1,124円であった。製糸業、紡績業、織物業など、若い女性労働力が主体の業種は、いずれも低い「平均賃金」であった。
 1947年7月5日の「新物価体系」発表にさいして、政府は、「工業総平均賃金」、「平均賃金1800円水準」、「工業平均賃金」、「工業総平均月1800円」と記していた。ところがそれからまもなく、「1800円ベース」という用語が登場した。
 産別会議機関紙『労働戦線』1947年9月23日号は、「政府の1,800円ベースに反対する生活権確保の賃上げ闘争は現在全国各地におこっている」(「兵庫に共闘組織「1,800円」の打破に起つ」)と記し、「1,800円ベース」という言葉を使いはじめた。それまで『労働戦線』は「1,800円基準」と表記していた。
 また、船舶運営会の争議においては、船舶運営会、船舶運営会労組それに立会人として、中労委と運輸省の関係者が1947年9月16日付けで、「本俸の是正については、現段階においでは申請中の本俸を認めるが官吏が1800円ベースに移行する場合においては、所要調整額を決定し、その調整額については暫定加給、その臨時増給及び臨時勤務地手当のベースとしないこと」という文言を含む「覚書」を調印した(『資料労働運動史 昭和22年』586)
 このように、1947年9月には「ベース」という言葉が使われていたことは確認できる。しかし、「1,800円ベース」という言葉が誰によっていつから使われはじめたのかは、わからない。とにかく、「新物価体系」発表の時点では「平均賃金1800円水準」と表記されていたものが、まもなく「1800円ベース」という和製英語に置き換えられた。「ベース」という和製英語は、「平均賃金」を意味した。
 ひとたび「1,800円ベース」という言葉が一般的になると、さかのぼって、官公庁の「1600円水準」も「1600円ベース」と呼ばれるようになった。さらにさかのぼって、1947年2月の官公庁の「平均月収(税込)1,200円」も「1200円ベース」と呼ばれるようになった。
 1947年末までには「ベース」という言葉が定着した。そこで1948年からは、労使の交渉の場で「ベース」が議論されるようになった。早くは1948年の官公労「三月闘争」で、「2,940円ベース」が交渉の対象となった。「ベース」をもとにした賃金交渉は、「賃金ベース改訂」交渉と呼ばれた。そして、『資料労働運動史』に収録されている賃金闘争をフォローすると、1949年までは「賃金ベース改訂」交渉がおこなわれていた。
 そして1950年に入ると、「ベースアップ」という言葉が用いられるようになった。たとえば電産の賃上げ要求闘争における3月30日付組合文書に、「我々の組合案に比すれば相当不満なものであるが、悪条件の客観状勢下並に主体的状勢から判断してベースアップを獲得した事は我々の勝利である」(『資料労働運動史』昭和25年版、49)という文章がある。「ベースアップ」という言葉は、明らかに「賃金ベース改訂」と同じ意味であった。したがって、「ベースアップ」とは「平均賃金」を引き上げることであった。

4 あいまいな「平均賃金」概念

「ベースアップ」という言葉は、以上のような経緯をたどって成立した。しかし言葉の成立経緯が明確になることと、用語の概念が明確になることとは、まったく別問題である。「ベースアップ」という用語についていえば、成立経緯は、その用語概念のいちじるしい曖昧さを明らかにしている。それは二つの意味においてである。

4.1 「平均賃金」に含まれる賃金項目

 一つは、「平均賃金」というとき、「賃金」にはいかなる賃金項目が含まれているのか、という問題である。「工業総平均月1800円」の計算方法について、政府は次のように説明した。
「この平均賃金の中には従来実物給与を受けていただけは金額として含まれているのである。このほか現在の給与形態は非常に複雑で色々な名義で手当類が出ているが、これらはすべてこの平均賃金の中に入つている。又賞与についてもそれが企業の経常的費用として生活補助的な意味で支払われている年末季未賞与のようなものはこの平均賃金の中に入つている。このことを裏からいえば、時間外労働に対する賃金は含まれないし、又法定福利費や通常の福利厚生施設費は福利厚生費として別に認めることとしている。」(大宮五郎「暫定業種別平均賃金について」物価庁[1947]63)
 この解説によれば、「工業総平均月1800円」つまり「1800円ベース」は「年末季未賞与」を含んでいる。そして「法定福利費や通常の福利厚生施設費」を含んでいない。「法定福利費」は明確なカテゴリーである。しかし、「通常の厚生福利施設費」は一義的な概念ではない。家族手当、通勤手当、住宅手当さらには退職金などが「通常の厚生福利施設費」なのかどうか、合意はない。
 ところが官公庁の「1600円ベース」は「基準労働賃金」を意味しており、「年末季未賞与」は含まれていない。「基準労働賃金」は「家族給」や「地域賃金」のような「通常の厚生福利施設費」とみなしてよいような賃金項目を含んでいる。
 つまり、「ベース」の計算にどのような賃金項目が含まれるのか、合意はまったく存在しない。そうであれば、それぞれの会社において「ベース」とされるものがどのような賃金項目を含むのか、それぞれの会社が勝手に決めるであろう。従業員構成(性別、年齢、職種など)が類似しているA社とB社でも、「ベース」の計算にどのような賃金項目が含まれるかによって、「ベース」は大きく異なることがありうる。
 また、一人当たり平均額という意味での「ベース」は、「ベースアップ」が実現しても、個々の従業員にとって賃金が上昇するかどうかは不明である。ある時点で「ベース」が10,000円であり、5%の「ベースアップ」がおこなわれて10,500円になったとしよう。「ベースアップ」交渉がおこなわれ、妥結して実際に賃金が支払われるまでに従業員構成は変化する。この間に、高賃金の従業員が増加し、低賃金の従業員が減少しているならば、5%の「ベースアップ」は個々の従業員にとって賃金の低下を意味することもありうる。

4.2 「平均賃金」=「平均的労働者」の賃金

「ベース」概念があいまいであるという第二の意味は、「平均賃金」という場合の「平均」とは何かという問題である。「工業総平均月1800円」の計算においては、計算に含まれる賃金項目の総額を労働者数で割った一人当たり「平均」である。ところが、その当時、この意味での「平均」とはまったく異なる「平均」概念があった。ある会社の「平均賃金」とは、「平均的従業員」の給与である、とする考えである。大蔵省給与局長今井一男は、次のように記している。
「或る会社の賃金ベースとは、その会社の平均年令、平均扶養家族数、平均学歴、平均勤続年数、平均地域別に当る者の給与を示すものだという風に一般に理解されているからである。深く考えないで常識的にそう思い込まれてしまつているのである。そこで普通行われる方法は、この平均年齢や平均扶養家族数などをからみ合わせて、そういう条件を具えた者の生計費を算出し、これを基礎にして平均賃金を弾き出すのである。」(今井[1949]『今日の給与問題』171)
 そして今井はさらに続けて、官公庁の「1600円水準」は、じつはこの意味における「平均賃金」であった、と告白している。
「かようなことは結局ベースそのものの本質に対する誤解から来ている。平均年令、平均扶養家族数、平均学歴、平均勤緯年数、平均地域別といったものを基礎とし、これに当る者の生計費乃至は賃金を算出したものがベースだと思込んでいるからである。しかしこれは一般の通例であるのみならず、中央労働委員会の電産調停案などもそうであり、全官公職員の臨時給与委員会もその筆法をとっている。お恥づかしい次第であるが、昨年(1947年−−野村)5月、全官公の1,600円ベース決定の際には、大雑把とはいいながら、私自身大体この方式によつたのである。尤も臨時給与委員合においては、こういつた間違いを重ねたくないと思つて大いに主張したのであるが、一委員の賛成を得たのみで少数否決されてしまつた。」(今井[1949]174)
 つまり、「ベース」は「平均賃金」であるが、「平均」は一人当たり平均額を意味する場合もあれば、ある会社の平均的従業員の賃金を意味する場合もある。それぞれの会社が発表する「ベース」が、どちらの意味での「ベース」なのか、外部の人間は知りえない。
 
5 定期昇給論の浮上

 以上のように「ベース」概念は、きわめてあいまいな概念であった。したがってまた、「ベースアップ」もきわめてあいまいな概念である。ところが、それ自体としてあいまいであった「ベースアップ」概念をさらにいっそう複雑にする事態が出現した。1954年の電気産業の賃金交渉において、中労委が「ベースアップ」の実施を否定し、定期昇給を実施せよ、という調停案を提示したのである。中労委の調停案によって、「ベースアップ」と定期昇給がどう違うのか、という問題がクローズアップされることになった。戦後の賃金引き上げは、労働組合が要求する「ベース改訂」、「ベースアップ」という形が主となっていた。ところが中労委の調停案によって、定期昇給という形での賃金引き上げがクローズアップされることになった。
 1954年の電気産業における賃金交渉は、複雑な性格を持っていた。しかしその点は、「ベースアップ」と直接の関係はないため、ここでは触れない。賃金交渉の調停にあたった中労委は、3月18日、次のような調停案を提示した。まず「前文」で、現行賃金が1年有半にわたって据え置かれたことと、労働生産性の向上を指摘し、賃金改訂はある程度考慮されるべきだとしたうえで、「しかしながら経済情勢の転換期に立って、将来に幾多の不確定な要因をもっている現在、従来の形そのままのベースアップを考えることは困難と思われるので、少くとも本年9月までは次の如き暫定措置をとることを適当と認める。10月以降この暫定措置を如何に本格化するかについては一般経済状勢、会社の業績その他を勘案して両当事者で協議せられたい」、とした。そして「本文」で、一時金として一人平均5,000円を支払うことのほかに、次のように述べた。
「昭和29年4月以降新に電気事業に定期昇給制を実施すること。但し、今回の昇給原資は、前文の趣旨に鑑み特に現行基準賃金の6%とし、その50%(462円−15,400円ベースに対し)を本人給の増額に当てる措置をとること。」(「電気事業賃金調停の全貌」『中央労働時報』1954年5月号、12)
 すなわち中労委は、電気産業の労使にたいして、「ベースアップ」ではなく「定期昇給制」の実施によって「現行賃金の改定」をおこなえ、という内容の調停案を提示したのである。
 電気産業争議に引き続いて中労委は、私鉄争議と日本通運争議にたいしても、類似の、しかし微妙に異なる調停案を提示した。私鉄については、次のとおりであった。
「昭和29年4月以降定期昇給制を実施することとし、右昇給分を含めて現行基準賃金(税込)を左の通り増額する。但し、営団については別途協議すること。
東急、東武、京成、京帝、名鉄、近鉄、京阪神、京阪、阪神、南海、西鉄……7.5%」(「私鉄賃金争議調停経過」『中央労働時報』1954年6月号、26)
 私鉄の労使には、「従来の形そのままのベースアップを考えることは困難」という文章はなく、また定期昇給の率も表示せず、「定期昇給制を実施することとし、右昇給分を含めて現行基準賃金(税込)」を7.5%上げる、とした。この表現からは、定期昇給の率を上回る「増額」分があることは確かであるが、その部分を何と呼ぶのかは不明である。
 日通争議においては、次のような調停案が提示された。
「昭和29年4月以降、新に昇給制を実施することとし、右の昇給分を含めて、現行基準賃金を一人平均6%増額支給すること。」(「日通争議調停の全貌」『中央労働時報』1954年6月号、27)
 ここでは定期昇給ではなく、「昇給」であり、「昇給」の率も表示されていない。「昇給」を含めて「現行基準賃金を一人平均6%増額」することにされた。また、「右の昇給分を含めて、現行基準賃金を一人平均6%増額支給」というのであるから、「右の昇給分」のほかに「増額」分があることになっている。この「増額」分をなんと呼ぶのか、不明である。
 この時期の『中央労働時報』における記事や中労委委員の発言などを見ると、中労委や中労委委員が「ベースアップ」とは何であり、それは定期昇給とどう違うのかについて、明確な考えを持っていたとはとうてい思われない。しかしともかく、この三つの調停案、とりわけ電気産業の労使に対する調停案によって、定期昇給にたいする関心が、とりわけ経営者の間で高まった。
 経営側は、これからは「ベースアップ」はおこなわない、定期昇給でいく、と宣伝しはじめた。労働組合側はそれに反発し、「定昇制の打破」を掲げた。しかし、定期昇給がクローズアップされればされるほど、定期昇給とは何か、「ベースアップ」とは何か、定期昇給と「ベースアップ」はどのように異なるのか、という概念問題が強く意識されざるをえなかった。定期昇給の実施を勧告した中労委自身は、「定期昇給制」についても、「ベースアップ」についても、概念規定をまったくおこなわなかった。そのためもあって、賃金交渉に関係する当事者や研究者が、各自の考えで概念規定をおこないはじめた。
 
6 日経連による定義と政策提言

6.1 日経連による定義(その一)

 定期昇給制度の確立を推進しようとした日経連は、昇給制度を「労働者の職務能力とその発揮度の上昇に対応して個々の労働者の賃金序列を修正する目的で、一定の査定基準に基いて定期又は臨時的に定額制の給与の基本的部分の調整増額を行い、併せて労働者の標準的な生活費の保障を考慮しようとする方式を制度化したもの」(日本経営者団体連盟事務局[1954]『昇給制度――その理論と実証的考察――』5)と定義した。
 この定義と対になって、「ベースアップ」を、「経営的基礎の有無に拘わらず全員一律に労働者の生活水準向上のために行う賃金増額」(日本経営者団体連盟事務局[1954]7)、と定義した。
 この定義にもとづいて「基本的賃金の増額」を分類したものが<図4-1>である。昇給は「労働者の職務能力とその発揮度の上昇に対応」する増額を主たる目的としているのだとすれば、年に1回ないし2回の定期昇給ごとに、欠格条項(欠勤日数や社内処分など)に該当する少数者を除く全員が昇給することは、明らかにおかしい。定年まで全員が毎年、「職務能力とその発揮度」が上昇することになるからである。このような仮定は、常識に反している。「労働者の標準的な生活費の保障」が主たる目的で、あわせて「労働者の職務能力とその発揮度の上昇に対応して個々の労働者の賃金序列を修正する」、と言うほうが、正確であろう。
 昇給の定義以上に混乱しているのが「ベースアップ」の定義である。「経営的基礎の有無に拘わらず全員一律に労働者の生活水準向上のために行う賃金増額」という定義には、「平均賃金」=「ベース」がまったく登場していない。「ベースアップ」という用語は「ベース」を上げるという意味で誕生したのであるから、「ベース」の概念がない「ベースアップ」定義はナンセンスである。また、「経営的基礎の有無に拘わらず」おこなわれる賃上げが「ベースアップ」だとすれば、「ベースアップ」によって会社倒産が頻発したはずである。会社内組合は、たしかに「経営的基礎の有無に拘わらず」「ベースアップ」を要求した。しかしいうまでもなく実際の「ベースアップ」は交渉によって決まり、妥結額は要求額よりも大幅に低いのが普通であった。とても「経営的基礎の有無に拘わらず」実際の「ベースアップ」がおこなわれた、とはいえない。さらにまた、「全員一律」の賃上げが「ベースアップ」であるという定義であれば、この定義にあてはまる「ベースアップ」がおこなわれている会社もあれば、あてはまらない「ベースアップ」がおこなわれている会社もある、というしかない。
 
6.2 日経連による定義(その二)

 先に引用した日経連の昇給・「ベースアップ」定義は、1954年に出版された本からの引用であった。ところが日経連は同じ1954年に、それとはまったく異なる昇給・「ベースアップ」の概念も主張していた。
 別の定義によれば、「昇給制度」は「新旧入退職者の労務費の差額に見合う昇給率により、企業の負担能力の向上なくして、ほゞ一定の労務費総額の下において、昇給曲線による昇給を、永続的制度として成り立たしめている」。それにたいして「ベースアップ」は、「初任給も上るし、初任後から停年までの間の各時点における昇給曲線から導かれる賃金を、それ以上の新たな水準に引上げる」(今村久壽輝「昇給とベースアップの原理」『経営者』1954年1月号、58)、というのである。つまり、「昇給曲線」を維持しながら個々の従業員の賃金を引き上げるのが「昇給」、昇給曲線の引き上げが「ベースアップ」である、というのである。
 この定義は、官庁における有力な賃金専門家であった金子美雄(厚生省から労働省を経て、この論文執筆当時は経済企画庁調査局長)によって、支持された。彼は次のように主張した。
「定期的個別昇給が一定の固定した賃金水準を個別労務者に通用する問題であるのに対し、ベース・アップはこの賃金水準自体の引上を意味するものである。次頁の図(<図4-2>−−野村)において、体系上の定期昇給はAからB、BからCへの昇給であるが、ベース・アップはABCの賃金基準線の代りに、A"、B"、C"という新しい賃金基準線への変更を意味するものである。」(金子[1959]金子美雄[1959]「定期昇給制度と賃金体系」日本労務研究会昇給制度委員会[1959]『昇給制度の実証的研究』5)
「賃金基準線」に沿った賃金引き上げが定期昇給で、「賃金基準線」を引き上げるのが「ベースアップ」だとするならば、「平均賃金」=「ベース」を改訂するという意味での「ベースアップ」はどのように位置づけられるのであろうか。金子は次のように言う。
「単純な平均賃金を賃金ベースと称する場合、この賃金ベースの変化は、賃金水準・労働時間・労働者構成の三つのものの変化の結合されたものである。さて、労働者の期待するものは、賃金水準の向上であって、平均賃金の上昇は単なる計算上の結果に過ぎない。その意味で真のベース・アップは賃金水準の引上でなければならない。」(金子[1959]12)
「単純な平均賃金を賃金ベースと称する場合、この賃金ベースの変化は、賃金水準・労働時間・労働者構成の三つのものの変化の結合されたものである」という主張は正しい。そして戦後日本に誕生した会社内組合は、まさしくこの意味で「ベースアップ」闘争を行ってきた。「ベース」改訂=「ベースアップ」という言葉は、「平均賃金」の引き上げという意味で発生した。ところが金子は、それは「真のベース・アップ」ではないというのである。現実に「平均賃金」の引き上げという意味で「ベースアップ」闘争がおこなわれてきたのに、それが「真のベース・アップ」ではない、とどうして言えるのであろうか。これは歴史用語としての「ベースアップ」概念の否定である。
 また、定期昇給が賃金交渉の当事者に強く意識されるようになったのは、電気産業の労使にたいして中労委のおこなった調停案にある。調停案は、6%の定期昇給を実施せよ、という内容であった。もし、「昇給曲線」の維持が昇給、昇給曲線の引き上げが「ベースアップ」である、という日経連の定義が正しいとするならば、中労委のこの調停案はナンセンスである。昇給曲線が存在するのであれば、中労委はたんに定期昇給を実施せよと言えば済んだはずであり、6%という数字が提示されるはずのないものであった。
 日経連による定義は、「賃金基準線」の存在を前提している。しかし「賃金基準線」は存在したのであろうか。日本油脂は、1955年3月に「化学工業の39社およびその他各業種の代表的な各社22社、計61社」を対象に、昇給制度にかんするアンケート調査をおこなった。その中の質問項目「昇給基準線を設定しているか否か」について、「設定している」と回答したのは 8社(13.1%)しかなかった。「一応想定している」会社は27社であった(日本経営者団体連盟[1956]『賃金格差の理論と実証的研究――生産性・企業経営分析・国民所得との総合的考察――』203)。「一応想定している」というのは、明確な「賃金基準線」はないが、イメージとしてはある、という程度であろう。したがって、「賃金基準線」は1割強の会社にしかなかった、というべきである。
 そもそも「昇給基準線」とは何を指しているのであろうか。日経連は、「一般に昇給基準線とは、個々の企業において、入社後の勤続年数の経過に応じ、年々の昇給に基いて標準的な者が辿るものとみられる賃金曲線であり、それは本来的には、企業の賃金政策に基いて長期的な観点より想定もしくは設定した賃金曲線を指す」(日本経営者団体連盟[1956]203)、と定義した。しかしこの定義について、佐間田睦雄(執筆当時、労働省賃金調査課長)は、「通常の企業において、このような意味の昇給基準線を設定している例は稀である」(佐間田[1959]『初任給と昇給制度――昇給基準線の統計的研究――』97)、と正しく指摘していた。

6.3 日経連の現状認識と政策提言

 じつは日経連は、現に存在する昇級曲線に沿った賃金引き上げが「昇給」であり、昇給曲線そのものを引き上げるものが「ベースアップ」である、という定義が非現実的であることを知っていた。関東経営者協会賃金委員会は、「昇給」と「ベースアップ」の区別が困難であることを指摘した。
「一般に昇給はベース・アップに対立した概念としてしばしば用いられているが、実際はそれほど明確な区分をすることはできない。即ち巷間指摘されているベー・ス・アップと昇給の差はベース・アップが適用対象を全労働者とし一斉に適用されるというに対して昇給は個々の労働者を対象とし賃金序列の修正を意味するとしているが、広義の昇給には初任給の引上げを伴う一斉昇給が含まれ、これはベース・アップと同意語で両者間の本質的区分はできない。又人事考課の採用をもって異質性の主張をなすがこれ又ベース・アップが配分の際人事考課による査定を全く否定しえない点をみても明らかであろう。」(関東経営者協会賃金委員会「定期昇給制度に対する一考察」『経営者』1954年9月号、73)
 日経連は、昇給と「ベースアップ」は「実際はそれほど明確な区分をすることはできない」という正しい事実認識を持っていた。それではなぜ日経連は、一見すると明快に見えるものの実際には非現実的な「賃金曲線」、「賃金基準線」なるものを持ち出したのであろうか。じつは、日経連は、これから「賃金基準線」を作ろう、という政策提言として「賃金基準線」を持ち出したのである。
「定期昇給ということ自体は「定期に行われる昇給」と「定期昇給」としての概念の二つに分けることができる。即ち「定期に行われる昇給」という場合は単に昇給が定期的に行われるということでありその内容となる昇給は既に述べた通り極めて弾力あるものである。これに対してわれわれが今後提唱せんとする後者の「定期昇給」の場合は賃金体系とその配分の具体的結果を表示する賃金格差の一表現即ち基準線維持とその変更の二つに区分した場合において基準線の変更を行わず個々の労働者の賃金の査定替えを定期的に行う制度であると規定することができる。いいかえれば基準線とは企業内に具体化された賃金格差の一表現であるが、時間の推移に伴う従業員の新陳代謝によって賃金格差形式の諸要素の個々の労働者への適用が異なってくるので、これを一定の時期に修正し従来の賃金格差を維持しようとする制度であるということができる。従ってベース・アップとも「定期に行われる昇給」とも内容を異にした制度であり、現代的課題ないしは実践的役割を以って登場してきた定期昇給制度の本質はここに求められるべきものと考えられる。」(関東経営者協会賃金委員会「定期昇給制度に対する一考察」『経営者』1954年9月号、73-74)
 定期昇給を「定期に行われる昇給」と「定期昇給」に区分するという主張は、あまりにトリッキーである。日経連は、「賃金基準線」に沿った賃金引き上げについては、定期昇給とは別の言葉で呼ぶべきであった。「定期に行われる昇給」と「定期昇給」を別のものとして区分したことによって、定期昇給概念がより混乱し、それにともなって、「ベースアップ」概念も別の意味内容を与えられてしまった。

6.4 「ベースアップ」=賃金表の改訂

「ベースアップ」とは「賃金基準線」を引き上げることである、という定義のコロラリーとして、「ベースアップ」とは賃金表の改訂である、という定義が誕生した。「賃金基準線」の存在の有無は、確認が困難である。「一応想定している」という程度を「賃金基準線」が存在してるといえるかどうか、判断は分かれるであろう。しかし、賃金表が存在し、毎年、従業員個々人の「賃金」が賃金表におけるランクを一つずつ上がるように運用されているならば、それこそが明確な「賃金基準線」である。そして、次のような明確な定義が可能となる。すなわち、賃金表に沿った賃金上昇が昇給、賃金表の書き換えによる賃金上昇が「ベースアップ」である。
 たしかに、賃金表が存在するならば、「賃金基準線」も存在する。しかし、賃金表が存在しなくても、「賃金基準線」は存在しうる。したがって、「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義は、「ベースアップ」=「賃金基準線」の引き上げという定義よりも狭い。
「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義は、「ベースアップ」=「賃金基準線」の引き上げという定義よりもはるかに明快である。こうした考えは、すでに1950年代には端緒的に表明されていた。金子美雄は、「ベースアップ」とは「賃金基準線」を引き上げることである、と主張した論文において、「従業員の大部分が一斉に昇給するということは、いわゆるベースアップ、すなわち賃金率表の全体的な改訂以外にはありえない」(金子[1959]15)と記していた。しかし、「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義は、広まらなかった。
 関東経営者協会は1956年11月末に、会員企業に対してアンケート調査をおこなった。昇給方式を「積重ね方式・・・・初任給または現基本給の上に単純にその年の昇給額を上積みしてゆく方式」、「再評価方式・・・・技能点その他の考課により常に現在本俸を再評価しながら各人の基本給表を書き替えてゆくような昇給方式」、「職級・号俸による方式・・・・職級・号俸による給与表で運営してゆく昇給方式」に分類して回答を求めたところ、<表4-12>のように、81社中62社(76.5%)が「積重ね方式」と回答した。「再評価方式」や「職級・号俸による方式」という賃金表方式は、81社中わずか11社(13.6%)にすぎなかった。「ベースアップ」=賃金表の改訂と定義するならば、大会社の1割強にしか「ベースアップ」がなかったことになる。これでは、「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義が広まるはずもなかった。
 その後、賃金表が少しずつ普及した。関東地区生産性労使会議の調査によれば、1984年時点で、定昇額・率が賃金表によって決まる会社は、規模3000人以上で23%であった(雇用振興協会[1985]『これからの昇給制度』268)。厚生労働省の2001年就労条件総合調査によれば、規模1000人以上の大会社においては、管理職以外の従業員に「賃金表がある」会社は85.7%であった。しかしこの数字は「基本給の一部に賃金表がある」13.0%を含んでおり、「基本給のすべてに賃金表がある」という会社は72.7%である。ここでいう基本給は「統計用語としての基本給」(「統計用語としての基本給」については、補論4-3)なので、たとえば年齢給が存在する会社においては、年齢ごとの年齢給額が明示されるのが普通であり、その場合、「基本給の一部に賃金表がある」ことになる。「本給」などと呼ばれるもっとも基本的な賃金項目(「会社用語としての基本給」)に賃金表がなくても「基本給の一部に賃金表がある」ことになるので、厳密な意味で賃金表があるといえるのは「基本給のすべてに賃金表がある」という会社である。それは72.7%である。
 1950年代、60年代とくらべれば、賃金表が普及したことはたしかである。そして、賃金表の普及とともに、「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義も広まりはじめた。産業労働調査所『賃金用語全集』(産業労働調査所、1984年)が「ベースアップ要求」の項目を、「ベースアップとは基本給表の金額を書き換えることによって労働者の個別要件にかかわりなく賃金を増額させることをいう。これに対して定期昇給は基本給表の金額はそのままで労働者各人の昇給をさせること」と解説した。「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義が辞典に登場したのは、これが最初であろう。これ以後、いくつかの辞典が「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義を採用した。現在、「ベースアップ」の定義としてもっとも普及しているのは、この定義ではないかと思われる。明快でわかりやすいからである。
 しかしもちろん、会社や会社内組合が発表する「ベースアップ率」や「ベースアップ額」が、この定義にもとづいているわけではない。そもそも、大会社の3割弱に賃金表がないのであるから、この定義にもとづく限り、たとえ賃金表が存在する会社のほとんどが「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義を採用しているという非現実的な仮定をしたとしても、なお3割弱の大会社に「ベースアップ」がありえない、ということになってしまう。

7 総評の定期昇給制批判

 総評による「ベースアップ」の定義は次のようなものであった。
「ベースは一企業なら一企業の賃金総額を労働者の頭かずでわったもの、いいかえれば、労働者全部のそれぞれちがう賃率を算術平均したものだから、労働者の構成が変化すれば、賃率は同じままでもベースは変るし、逆に、賃率は上下してもベースは同じままだということもありうるわけです。そして、賃上げというのは、正しくは賃率の引上げと理解すべきですね。だから、ベース・アップイコール賃上げ、ベース・ダウンイコル賃下げとみることには問題があるわけで、両者を同じようにあつかうには労働者の構成をいつも一定と前提する必要があります。」(総評調査研究所[1959]『日経連の定昇制批判――定昇制といかに闘うか――』6)
 総評は一方でこのような「ベースアップ」概念を持ちながら、他方で定期昇給については「昇給基準線」に沿った個人別賃金の引き上げであると主張した。そのうえで、「定昇制の撤廃」が必要だとして、その理由を次のように述べた。
「まず第一に、日経連が「ベース・アップに代る昇給制度」とか 「ベース・アップの排除と昇給制度の確立」とかいっているように、ベース・アップ闘争を抑圧して賃金をストップするということです。すなわち、定昇制は巧妙な賃金ストップ政策だということです。
 第二には、勤務評定や人事考課、による賃金の査定権、個々の労働者への賃金の配分権を資本の手中に確保し、それにもとづく不当な差別昇給によって労働者の抵抗をおさえ、労働者をおたがいに対立させ分裂させるというやり方で、これを労務管理の手段に利用しようということです。この二つが、いま資本がうちだしてきている定昇制の二大支柱といえましょう。」(総評調査研究所[1959]4-5)
 定期昇給制度が賃金ストップ政策であるとう理由は、「一人ひとりの賃金は年令や勤続の増加とともに、昇給基準線にそって.だんだん上るけれども、一定の高さの初任給からはじまる昇給基準線そのものは少しもうごかない。しかし、昇給基準線がうごかないということは、全体としてみれば賃金に変化がない、ストップしたままである」(総評調査研究所[1959]6-7)からである。
 総評は、一方で「平均賃金」の引き上げを「ベースアップ」だと指摘しながら、他方で日経連の定期昇給概念を受け入れている。なぜこのような非論理的な主張をするのか、私には理解できない。

8 「ベースアップ」のイメージ

 広く合意される「昇給」と「ベースアップ」の定義がないため、次のような光景も出現する。「たとえば、ある企業では、賃金規則上の昇給時期になると労働組合が基本給改訂の要求を提出する。労働組合は、これをベース・アップ闘争といっている。ところが、経営者は、今年度昇給実施案として、この要求にたいして回答をだす。結果は団体交渉できまるのである。労働組合は昇給制を打破したといい、経営者は昇給制をまもりとおしたと考えている。」(氏原[1961]121)
 定義は別として、定期昇給と「ベースアップ」のイメージはそれなりにはっきりしている。すなわち、「ベースアップ」は労働組合によって要求され、額も大幅である。定期昇給は労働組合の要求がなくても実施され、額はモデレートである、というイメージである。しかし、いつもこのイメージであったとはいいがたい。労働組合が「ベースアップは資本家の道具」として激しく非難したこともあったからである。
 総評の中核組合の一つであった合化労連(現・JEC連合)は、「ベースアップは資本家の道具」とする理由を次のように説明した。
「(イ)昭和23年官公労中心に導入されたベース賃金=賃金総額/総人員は労務費を算定するために資本家政府の道具として使われたもので、個々の組合員にとって関係のないものだ。
(ロ)ある程度の賃金水準の目安にはなるが、人員構成=年令、勤続、扶養家族数、労働時間に関係ない。
(ハ)賃金の範囲が、家族給、生産手当、役付手当、特殊作業手当を含むのか含まないのか全くわからない。
(ニ)ベースで企業の斗いにおしこめられ、職階制配分で組合の分裂に使われてきたし、職制強化=労働強化に役立ってきた。」(日本経営者団体連盟[1953]『主要労組の賃金要求案とその算出根拠について』146)

9 辞典の誤り

 この<補論4-1>の冒頭に、いくつかの辞典から「ベースアップ」の定義を引用した。これまでに指摘したことを踏まえるならば、それらは多かれ少なかれ誤りを含んでいる。
 (1)『岩波小辞典 労働運動 第2版』では、「個別企業の賃金支払総額を、従業員総数または組合員数で割った平均賃金をベース賃金」と称する、と記述されている。これは正確ではない。問題は分子の「賃金支払総額」にある。個別の会社や企業内組合が発表する「ベース賃金」では、家族給、生産手当、特殊作業手当など、さまざまな賃金項目のどれが含まれており、どれが含まれていないのか、会社ごとに異なっていた。したがって分子が「個別企業の賃金支払総額」とは言えない。また、「平均的従業員」の賃金=「平均賃金」=「ベース賃金」とする解釈について触れられていない点でも問題がある。
 (2)日本経済新聞社編『賃金用語辞典』の説明は、理解が困難である。「労働力の特定の銘柄、すなわち、同一の学歴、年齢、勤続、能力、職務にある者に対してその賃金を引き上げる措置をいう」という「ベースアップ」の説明は、おそらく、春闘における労働組合からの個別賃金要求を念頭に置いているのではないかと思われる。もしそうだとすれば、個別賃金要求は「ベースアップ」要求の一つの形態であり、それをもって「ベースアップ」そのもののとして説明することは誤っている。
 (3)日本生産性本部労働部『労使関係用語の手引』では、「1946年末頃から、官公労を中心に予算単価引上げをベース・アップと呼ぶことが定着した」と書かれている。これは事実誤認である。「ベース」という言葉が定着したのは1947年末頃である。「予算単価引上げをベース・アップと呼」んだ例を私は知らない。何を実証的根拠にこのような記述をしたのであろうか。
 (4)日本経団連労働政策本部『人事労務用語辞典第6版』では、「賃金曲線上の昇給ではなく、賃金曲線(昇給曲線)そのものを上に移動させ、賃金表を書き換える昇給」となっている。この定義の問題点については、すでにくわしく検討した。
 この辞典には、まだ他の誤りもある。「わが国にベースアップが定着したのは、所得倍増政策の時代からといわれる」、と記しているが、所得倍増政策は、1960年11月の経済審議会答申を受けて池田内閣が同年12月に閣議決定したものである。しかしそれ以前において、労働組合は「ベース改訂闘争」あるいは「ベースアップ闘争」をおこなってきた。「わが国にベースアップが定着したのは、所得倍増政策の時代からといわれる」という記述は、1947年からの「ベース改訂闘争」あるいは「ベースアップ闘争」を無視している。
 (5)花見忠/日本労働研究機構編『人事・労務用語辞典』の「ベース・アップ」項目は、説明になっていない。また、「物価上昇分や従業員の生活向上分を目的とした賃上げ分」という説明は、「平均賃金」に触れていない点で、誤っている。
 それだけではない。この辞典では、「昇給」の項目で、「ベースアップ」についてまったく異なる説明をおこなっている。
「ベース・アップが労働者全体の賃金ベースを引き上げるのに対して、昇給はその時々のベースの中で個々の労働者の賃金を個別に引き上げる。昇給の形態としては、一定の勤続期間を経ると個人の能力や業績に関係なく全員機械的に昇給する自動昇給と、個人の能力や業績等に関する評価に基づいた考課昇給があり、毎年期日を定めて行う定期昇給と、昇給の時期が不定の臨時昇給に分類される」。
 この説明は、「ベースアップ」=「賃金基準線」の引き上げという日経連の定義を念頭においていると思われる。その問題点は、すでにくわしく検討した。
 また、ここでの「昇給」の説明は、矛盾している。「昇給」は「個々の労働者の賃金を個別に引き上げる」と記しておきながら、その直後に、「個人の能力や業績に関係なく全員機械的に昇給する自動昇給」があると解説している。「個々の労働者の賃金を個別に引き上げる」という「昇給」の定義が正しいとすれば、「自動昇給」は「昇給」ではないはずである。
 (6)『岩波現代経済学事典』は、「ベースアップ」を「賃金表の書換えによる一斉賃上げ」としている。この問題点については、すでにくわしく説明した。
 この辞典には、ほかにも問題がある。「第2次大戦後の日本では、インフレに対抗して実質賃金水準を維持するために、労働組合は賃金の一斉引上げを要求した」という文章は正確ではない。戦後間もない頃、多くの会社内組合は「実質賃金水準を維持する」ために「ベースアップ」要求したのではなく、「生活危機突破」のために「ベースアップ」を要求した。
 また、この事典は、「日本の大企業や公務員には戦前から定期昇給制度の慣行があって、毎年4月に既定の賃金表・俸給表に従って従業員の給与を引き上げる慣行があった」と記している。だが、大会社の「昇給」は毎年4月ではなかった。1920年代後半、住友合資や三菱では6月と12月であったし、安田保善社では5月と11月であった。さらに、「既定の賃金表・俸給表そのものの書換え」ではなく、積み上げ方式であった。

10 「ベースアップ」という用語を廃語に

 話がこみいってしまったので、整理しよう。
 1947年に、「平均賃金」という意味で「ベース」という用語が使われるようになった。ところが「平均賃金」の計算方法は一義的ではなかった。「平均賃金」の計算方法は二つあり、まったく異なっていた。
「平均賃金」の一つの計算方法は、ある会社において、さまざまな賃金項目のうちいくつかの賃金項目を除いた上で、残りの賃金項目を総計し、それを従業員総数で割る。どのような賃金項目を除外するのかは、それぞれの会社によって異なり、しかもどのような賃金項目が除外されているのかは対外的には発表されないため、「平均賃金」を会社間で比較することは無意味である。
「平均賃金」のもう一つの計算方法は、「平均的従業員」の賃金の計算である。ある会社において、平均的な年齢、平均的な学歴、平均的な扶養家族数等々を調べ、それにマッチする従業員を「平均的従業員」とし、その賃金を「平均賃金」とする。
 このように、「平均賃金」=「ベース」には、まったく異なる二つ概念があった。ある会社の「賃金ベース」が2,000円だとしても、その会社がどちらの意味で「ベース」を計算したのか、外部の者は知りえない。
 会社内組合は、「ベース」の引き上げを要求した。「ベース」の引き上げが、1950年から「ベースアップ」と呼ばれるようになった。したがって「ベースアップ」は、いくつかの賃金項目を除いた賃金総計を従業員総数で割った「平均賃金」を引き上げること、あるいは、「平均的従業員」の賃金という意味での「平均賃金」を引き上げることを意味した。
 1954年に、中労委の電気産業争議にたいする調停案を契機として、以上のような「平均賃金」引き上げとはまったく異なる「ベースアップ」概念が二つ登場した。いずれも日経連の提唱である。
 一つは、「経営的基礎の有無に拘わらず全員一律に労働者の生活水準向上のために行う賃金増額」が「ベースアップ」だとする定義である。
 もうひとつは、「賃金基準線」を引き上げる賃上げが「ベースアップ」、「賃金基準線」を維持したまま個別従業員の賃金を引き上げるのが昇給である、とする定義である。
 日経連によるこの二つの定義のうち、「経営的基礎の有無に拘わらず全員一律に労働者の生活水準向上のために行う賃金増額」とする定義は、あまりにも無理があり、忘れ去られていった。もうひとつの定義「賃金基準線」の引き上げは広く普及した。
 日経連の提唱した「ベースアップ」=「賃金基準線」の引き上げという定義のコロラリーとして、「ベースアップ」=賃金表の改訂という定義が誕生した。この定義は、1980年代から普及しはじめ、わかりやすため、今日もっとも有力な定義となっている。
「ベースアップ」の定義は、こまかな差異を取り上げるならば、もっと多様になる。それでは、流布している多様な「ベースアップ」概念のなかで、会社は実際にどのような意味で「ベースアップ」という用語を使っているのであろうか。これはわからない。それぞれの会社が、それぞれ勝手に「ベースアップ」を定義し、「ベースアップ率」や「ベースアップ額」を発表している。A社発表の5%ベアとB社発表の4%ベアは、「ベースアップ」の概念と計算方法が異なるため、A社のほうが高い賃上げである、とはいえない。どちらが高い賃上げであるのかは、誰にもわからない。それぞれの会社の「ベースアップ」の概念と計算方法が公にされることがないからである。
 それでは、毎年の春闘で、たとえば今年のベア水準は4%、と報道されていることは、どのように理解すればよいであろうか。「ベースアップ」水準についてしばしば引用されるのは、かつての日経連、現在の日本経団連「昇給・ベースアップ実施状況調査」である。日本経団連労働政策本部編『日本経団連賃金総覧2006年版』によって、この調査を説明しよう。この調査では、まずはじめに「定期昇給とベース・アップの区別がありますか」と質問する。そして、区別がある、と回答した会社を対象としてベアの額と率を集計する。2005年では、調査に回答した357社のうち、定期昇給と「ベースアップ」の区別があるとした153社についてベアの集計がなされた。定期昇給と「ベースアップ」区別があるのは42.9%で、半数に満たない。「調査票記入要領」は、「「定期昇給」とはベア以外の賃金増額をいいます」と記しているのみで、「ベースアップ」の定義はない。つまり回答する会社は、各自の定義する「ベースアップ」にもとづいてベアの額と率に回答している。これにもとづいて、毎年のベア水準が計算されている。
「ベースアップ」という用語は、混乱した概念の積み重ねであった。そして近年、さらに混乱を重ねる事態が生まれている。バブル崩壊後の不況が長引き、会社側が「ベースアップ」の余裕はまったくない、という強い姿勢を打ち出す中で、組合側が「賃金体系維持分」、「賃金改善分」というあらたな造語をもって賃金交渉にのぞむようになった。このような用語は、「ベースアップ」概念をさらに混乱させている。
 こうしたアナーキーな状況を前にして、私は、「ベースアップ」を定義することは不可能であり、「ベースアップ」という言葉を使う限り、概念の混乱は不可避である、と思わざるをえない。「ベースアップ」という用語は、廃語にすべきである。







(2006年11月26日)「賃金」という問題

 これまで何度かこのHPで、新しい本を書き下ろしで執筆している、とアナウンスしてきた。一昨日ようやく最終章である第6章を書き終えた。これから読み直して微修正するが、メインボディがともかくもできたので、ほっとしている。本のタイトルと章だては、次のようになる。

『日本的雇用慣行−−その全体像−−』
序章  課題と視角
第1章 学校から「実社会」へ
第2章 定年制つき「終身雇用」
第3章 年と功の年功制
第4章 「老婆心」の賃金
第5章 会社の一部としての会社内組合
第6章 日本的雇用慣行のこれまでとこれから

 本書の主張は、教科書で解説されている日本的雇用慣行や通俗的イメージとしての日本的雇用慣行とはかなり、というべきか、きわめて、というべきか、とにかく異なっている。本書は、日本的雇用慣行の全体像を明らかにしようとした研究書であり、日本的雇用慣行をあたかもすでに分かっているかのように記述している教科書とは範疇を異にする。なにがしかの問題提起はおこなっているのではないか、と自分では思っている。
 もっとも難渋したのは、第4章「老婆心」の賃金であった。賃金について、かつて氏原さんは、次のように嘆いた。
 「私は、昇給という非常にポピュラーな賃金用語が、果して関係者達にどのようなイメージをおこさせているのであろうか、という課題を、私なりに解いてみた。この例証からもわかるように、一つの用語のなかに、容易には統一しがたいいくつかの意味が含まれている。これらの意味のそれぞれは、別の用語をもって表現することもできる。そのほうがはるかに簡単であり、明確である。それにもかかわらず、おなじ用語が使われている。おなじことは、賃金にかんするその他の用語、たとえば賃金体系・賃金形態・同一労働同一賃金・職種別賃金・最低賃金・職務給・基本給等々の用語についてもいえる。試みに、読者がこれらの用語の定義を考え、そして若干の文献でも読んでみるとよい。おそらくはどうにもならない迷路に踏み迷うことになるだろう。」(氏原正治郎[1961]『日本の労使関係』123)
 賃金について書くことは、氏原さんのこの言葉をかみしめることでもあった。そして、こう嘆いた氏原さん自身も、その後、賃金用語に正確な概念規定をすることなく賃金を論じるようになった。こう言ったからといって、私は氏原さんを批判しているのではない。賃金用語を正確に概念規定することはほとんど不可能ともいえる。かくいう私も、一般読者を想定して賃金について書かなければいけないとすれば、概念規定を明確にしないまま、いくつかの用語を使わざるを得ないと思っている。賃金について論じることは、それほどむずかしいことである。世上、賃金についてあたかも明快に解説しているかのように見える本が多数出回っているが、そのほとんどは、皮相なものである。
 そもそも、「賃金」という言葉自体が問題である。太平洋戦争終結前の賃金概念と戦後の賃金概念は異なっていた。戦前、会社身分制の下でホワイトカラー(「社員」「準社員」)とブルーカラー(「職工」「工員」「労務者」)の間にはさまざまな差別が存在した。会社に勤めることによって得る対価についても、ホワイトカラーとブルーカラーでは異なっていた。ブルーカラーは「賃金」(「賃銀」とも書く)を得た。ホワイトカラーは、会社によって対価の名称が異なっていた。三菱系の会社などが「給料」と呼んでいるものの、大半の会社は「俸給」と呼んでいた。したがって、戦前においては、ブルーカラーが「賃金」を、ホワイトカラーが「俸給」を得ていた、といわなければならない。戦前には、「賃金」と「俸給」はまったく別の世界に属していた。そのため両者を包括する言葉はなかった。戦前においては、「報酬」という言葉は、多くの場合、会社の取締役(重役)に支払われるものを指していた。
 「賃金」と「俸給」の区別については、注意して用いれば問題は生じない。問題はその先にある。戦後的な意味で「賃金」という用語を用いた時に、必ず生じる問題がある。会社は従業員あるいは元従業員にさまざまな名称で貨幣、実物、サービスを給付する。毎月の定期的な給付には、会社によってその具体名はさまざまであるが、一般的には、本給、勤続給、年齢給、皆勤手当、通勤手当、家族手当、地域手当、特殊作業手当、役付手当、住宅手当、超過勤務手当などが支給される。年に数回定期的に支給されるものとして賞与がある。不定期に支給されるものとして、さまざまな名目の一時金(会社創立記念50周年記念、新工場完成記念、増資決定記念など)、慰労金、弔意金、見舞金など、さまざまな臨時給がある。退職にさいしては、退職金が支払われる。以上の給付は会社に勤めていることによって支給されるものであるが、会社を退職した後も、企業年金が存在する場合には、企業年金が支給される。「賃金」とは、以上のような給付すべてを包括するものであろうか。それとも、それらの給付のうち、ある給付は「賃金」であるが、ある給付は「賃金」ではないのであろうか。
 つまり賃金論は、その入り口からして困難な問題をかかえているのである。とにかくこうした問題から始まって、第4章賃金は、難渋した。執筆の過程で、いくつかの用語については、用語の定義が混乱するに至った経緯を詳しくフォローした。ここでは、「基本給」という用語について、第4章補論として書いたものを掲げておく。
 賃金について論じる論者が、複雑怪奇な賃金問題をあたかも明快であるかのように論じることができるのは、彼らが個別企業の賃金制度について論じているか、あるいは官庁統計に依拠しているからである。個別企業の賃金制度については、明快に論じることができる。賃金問題の複雑さは、企業を超えた時に発生する。つまり、個別企業を超えて妥当する賃金用語が存在しないのである。個別企業を超えて妥当する賃金用語が存在するように見えるのは、官庁統計が存在するからである。たとえば賃金センサスや毎月勤労統計などが、それぞれの賃金用語について明確な概念を提示しているかのように見せかけてるからである。したがって、官庁統計に依拠して賃金を論じると、あたかも明快であるいかのような賃金論ができあがる。しかし、官庁統計用語の底には、わけのわからない世界が広がっている。官庁統計用語に依拠した研究は、たしかに明快な世界を描くことができる。しかしその世界は、賃金の現実から遠く離れたものである、と私は思っている。その例としても、「基本給」の事例は参考になるであろう。


補論4-3 「基本給」の定義

1 「基本給」と「諸手当」についての用語説明

 きわめてしばしば、賃金は基本給と諸手当からなる、といわれる。たとえば日本経団連労働政策本部『人事労務用語辞典第6版』(日本経団連出版、2001年)によれば、基本給と諸手当は次のように解説されている。
「基本給 賃金を基本的部分と付加的部分に分けた場合、前者を基本給という。賃金=基本給+諸手当という形をとる場合が多く、通常、基本給は、本人給(あるいは属人給ともいい、年齢給・勤続給からなる場合が多い)と職務給・職能給・仕事給などから成り立っている場合が多い。」
「諸手当 月間に支払われる賃金は、基本部分を形づくる基本給と基本給を補完する役割を果たす付加的給与から構成されるのが普通だが、この付加的給与を総称して諸手当という。」
 つまり基本給とは「賃金」の「基本的部分」であり、「諸手当」は「賃金」の「付加的部分」である、という解説である。これでは、たんなる言葉の置き換えであり、基本的部分と付加的部分を区分する基準が示されない限り、何の解説にもなっていない。たとえば、年齢によって決まる「年齢給」という賃金項目がなぜ「基本給」であって「付加的部分」でないのか、理由は不明である。
 基本給と諸手当の区分基準が不明であるのは、他の辞典や教科書でも同じである。違いはせいぜい、基本給に分類される賃金項目の例示がいくつあるかという程度である。区分基準が不明確であるにもかかわらず、辞典や教科書が基本賃金という明確な概念があるかのように記しているのは、それらが官庁労働統計用語をうのみにして、官庁労働統計用語の内容を検討しないからである。

2 法令用語としての基本給

 もともと日本の会社は、基本給という言葉は使っていなかった。基本給という言葉は法令用語として登場した。日中戦争が全面化する中で、1938年5月から国家総動員法が実施された。国家総動員法は、経済に対する国家統制を飛躍的に強化した。国家総動員法にもとづく1939年10月18日の賃金臨時措置令は、「労務者ノ賃金」上昇をストップさせようとしたものであった。その第3条は、「本令ニ於テ基本給ト称スルハ定額賃金制ニ於ケル定額給又ハ請負賃金制ニ於ケル保証給若ハ単位時間給」である、と規定していた。この賃金臨時措置令以後、会社が当局に提出するさまざまな賃金関係書類様式に「基本給」の欄が設けられ、敗戦まで続くことになる。
 賃金臨時措置令は「労務者ノ賃金」を対象とするものであり、職員の俸給を対象とするものではなかった。職員の俸給上昇をストップさせるために会社職員給与臨時措置令が1939年10月18日に公布された。その第9条に、「基本給料(給料手当ノ中基本ト為ルベキ固定給ヲ謂フ以下同ジ)」という規定がおかれていた。つまり、労務者の「基本給」に相当するものとして、職員には「基本給料」が規定されていた。
 したがって基本給は、「労務者ノ賃金」において、「定額賃金制ニ於ケル定額給又ハ請負賃金制ニ於ケル保証給若ハ単位時間給」のことであった。これが法令用語としての基本給である。
 法令用語としての基本給は、敗戦によって戦時統制法が無効となるとともに、使われなくなった。しかし基本給という言葉そのものは、異なった意味を持たされながら、二つの方向で戦後も使われることになった。一つは官庁労働統計用語としてであり、いまひとつは会社内における賃金項目名称としてである。
 
3 統計用語としての基本給

 1947年9月に、厚生省の労働関係部門が独立して労働省が設置された。労働省は精力的にさまざまな統計調査をおこなった。そのうちの一つに、給与構成調査→賃金労働時間制度総合調査→賃金労働時間制度等総合調査→就労条件総合調査と名前を変えながらおこなわれた調査がある。この統計調査は、出発時点の名称が給与構成調査であることからわかるように、賃金構成を明らかにすることが柱の一つになっている。辞典や教科書で基本給の概念が説明されるとき、それらはこの調査における基本給の定義に依拠している。

3.1 労働省による基本給の定義

 給与構成調査とその後継調査における賃金項目の分類はしばしば変更された。そのこと自体が、賃金項目の分類が複雑で困難であることは示唆している。ここでは1974年版賃金労働時間制度総合調査を取り上げよう。この年には、賃金項目は次のように分類された。

基本給
  仕事給
    仕事給(1)
    仕事給(2)
    仕事給(3)
  属人給
    属人給(1)
    属人給(2)
  総合給
    総合給(1)
    総合給(2)
業績給
  個人出来高給(能率手当)
  団体業績給(生産手当)
  その他
勤務手当
  役付手当
  特殊作業手当
  特殊勤務手当
  技能手当
奨励手当(精皆勤手当)
生活手当
  家族手当
  地域手当
  通勤手当
  住宅手当
  その他の生活補助手当
その他の諸手当
超過勤務手当
その他

 この分類は、一見すると複雑な賃金項目をきれいに整理しているように見える。賃金は基本給、業績給、諸手当で構成される。戦時中の法令用語としての基本給は「定額賃金制ニ於ケル定額給又ハ請負賃金制ニ於ケル保証給若ハ単位時間給」であった。1974年版賃金労働時間制度総合調査における基本給は「名称のいかんにかかわらず、年齢、学歴、勤続年数、経験、能力、資格、地位、職務など、労働者本人又は従事する職務に伴う要素に基づいて決定支給するもので、賃金の基本的部分を占め、賃金体系を適用する労働者全員に支給するものをいう。出来高など労働の量的成果に対応して支給するもの、特定の条件に該当した場合に支給するものは除く」となっているので、法令用語としての基本給概念と、統計用語としての基本給概念は異なっている。統計用語としての基本給概念では、基本給のタイプとして仕事給、属人給、総合給があり、そのそれぞれがさらに分類される。
 統計用語としての基本給や諸手当概念の最大の問題は、どのような判断基準にもとづいてそれぞれの賃金項目が基本給や生活手当などに分類されたのかが不明である点にある。基本給は仕事給、属人給、総合給にタイプ分けされるが、そのそれぞれの定義は次のようになっている。
「(イ)仕事給
  職務、職務遂行能力など仕事的要素に対応して決定されている賃金。
  a 仕事給(1)
    職務評価によって、各職務の重要度、困難度、責任度などにより、職務の価値を評価し、職務の等級を定め、職務等級に応じた賃金表によって支給する賃金。
  b 仕事給(2)
    従事する職務の性質や種類、あるいは職務を遂行するに必要な能力を判定し、その結果に基づきあらかじめ規定された賃金表によって支給する賃金。
  c 仕事給(3)
   職務、職種、職能など仕事的諸要素によって決定する賃金であるが、職務評価を行わず、また具体的に規定された賃金表のない賃金。
 (ロ)属人給
   年齢、勤続年数、学歴などの属人的要素に対応して決定されている賃金。
  a 属人給(1)
    年齢、勤続年数、学歴などの属人的要素のうち、1つ又は2つ以上の要素によってきめられる賃金で、あらかじめ具体的に規定された賃金表に基づいて支給する賃金。
  b 属人給(2)
    年齢、勤続年数、学歴などの属人的要素のうち、1つ又は2つ以上の要素によって決められる賃金で、具体的に規定された賃金表のない賃金。
 (ハ)総合給
   仕事的要素と属人的要素を総合的に評定して決定されている賃金。
  a 総合給(1)
    年齢、学歴、勤続年数、職務、職種、能力などの諸要素のうち、特定の要素を主とすることなく、各要素を総合的に評定し、あらかじめ規定された賃金表に基づいて支給する賃金。
  b 総合給(2)
   賃金表の定めがなく、年齢、学歴、勤続年数、職務、職種、能力などの要素を総合評価して支給する賃金。」
 以上の分類によれば、たとえば年齢によって決まる年齢給は、基本給の属人給に分類される。しかし、年齢給は年齢の上昇とともに増える生活費をカバーするために支払われている、と考えることもできる。そうだとすれば、年齢給は「生活手当」に分類されてもいいはずである。なぜ年齢給は基本給であって生活手当ではないのか、上の基本給の定義は何も説明していない。
 また、仕事給(1)は「職務評価によって、各職務の重要度、困難度、責任度などにより、職務の価値を評価し、職務の等級を定め、職務等級に応じた賃金表によって支給する賃金」である。明らかに、通常は職務給と呼ばれる賃金項目である。それでは仕事給(2)とは何か。それは、「従事する職務の性質や種類、あるいは職務を遂行するに必要な能力を判定し、その結果に基づきあらかじめ規定された賃金表によって支給する賃金」とされている。「従事する職務の性質や種類」にもとづいて決められる賃金項目は、職務給であろう。それでは仕事給(1)とどこが違うのか。唯一の違いは、仕事給(1)では職務評価がおこなわれるのにたいして、仕事給(2)では職務評価について触れられていないことだけである。ところが仕事給(2)では、「職務を遂行するに必要な能力」にもとづいて決められる賃金項目も仕事給(2)に含まれている。「職務を遂行するに必要な能力」にもとづいて決められる賃金項目は普通は職能給と呼ばれ、職務給とはまったく別の属人的な賃金項目であると考えられている。つまり仕事給(1)と仕事給(2)の職務給的な賃金項目の差は小さく、仕事給(2)として一括されている職務給的賃金項目と職能給的賃金項目との差はきわめて大きい。なぜこんな無理な分類がされたのか。
 基本給の分類については他にもまだ疑問点が多々ある。しかし統計用語としての基本給概念がいちじるしく曖昧であることについては、以上の指摘で十分であろう(遠藤公嗣[2005]『賃金の決め方』第3章も参照)。

3.2 統計用語としての基本給の初登場

 基本給概念がいちじるしく曖昧であることは、統計用語としての基本給概念が登場した初発の段階で強く意識されていた。第1回の給与構成調査は、「事業場賃金構成調査」という名称で1948年3月に試験的におこなわれた。調査の責任者であった労働省統計調査局統計調査課長瀧本忠男は、率直に感想を述べている。
「現在の我国事業場の賃金項目は複雑であり又曖昧であり、厳密な意味で分類し難いものがある。ここでは仮に次の規準に基いて分類してみた。本規準はある程度抽象的であり、賃金項目の実際の分類に当ってはかなりの困難を感じた。」(瀧本忠男[1949]『賃金構成』17)
 給与構成調査と賃金労働時間制度(等)総合調査の歴史は、この瀧本の言葉を借りるならば、「賃金項目の実際の分類に当ってはかなりの困難を感じ」続けた歴史だったと言い切ってよいであろう。そのために、賃金項目の分類がしばしば変更された。
 ここで瀧本が「仮に次の規準に基いて分類してみた」と言っているその分類は、次のようなものであった(瀧本[1949]19-21)。
A 基本給
B 職務手当
C 奨励給
D 家族給
E 物価手当
F 地域給
G 超過勤務手当
H 特殊勤務手当
I 不就業手当
J その他の給与
 そして基本給と職務手当の定義は、次のとおりであった(瀧本[1949]19)。
「基本給」「年齢、勤続年数、経験、学歴技能に基いて決定される給与とする。例えば事業所に於て日給、月給又は本給等と称して右の要素(年齢、勤続年数、経験、学歴技能を指す−−野村)を考慮に入れて決定して居る給与、及び右の要素に単的に基いて決定されている年齢給、勤続給及び能力給、其の他勤続手当年功手当として支給されているものを含む。」
「職務手当」「従事する職務の責任度又は職務の性質及び種類に基いて決定される給与とする。例えば役付手当又は職階制による職務手当がこれに含まれる。タイピスト、守衛、出納員等の特殊な職務に支給するものを含む。」
 この分類方法では、職務給は職務手当となり、基本給には含まれないことになる。それ以上に問題なのは、ここにあげたが基本給の定義は定義になっていないことである。基本給の概念はこれこれであり、たとえば年齢給はこの定義に照らして基本給に含まれ、というのであれば、明快な定義が与えられたことになる。しかしここではたんに、年齢給を基本給に含めると言っているだけであり、なぜ年齢給を基本給に分類するのか、不明である。
 ここに引用した基本給概念が、統計用語としての基本給概念の初出である。そしてこの最初の基本給概念が、統計用語としての基本給概念がどのような考えにもとづいて作られたのかについて、推測を可能にしている。つまり、統計用語としての基本給概念は、戦時経済に入る以前の「日給、月給又は本給等」をもとに形成された。「日給、月給又は本給等」は「年齢、勤続年数、経験、学歴技能に基いて決定」されていた。したがって「年齢、勤続年数、経験、学歴技能に基いて決定」される賃金項目を基本給と呼ぶ、ということで、統計用語としての基本給概念が作られた。
 ここから、年齢給、勤続給などが基本給に分類される理由もわかる。戦後においては、戦前の「日給、月給又は本給等」に含まれていた年齢給的な要素や勤続給的な要素が年齢給や勤続給というような独立した賃金項目になることが多かった。このような賃金項目が、給与構成調査において基本給に分類された。
 同じく、職務給がこの最初の基本給概念において基本給ではないとされた理由もわかる。戦前の「日給、月給又は本給等」は属人的なもので、職務給的な要素はなかった。職務給にしなければならないという考えは戦後に生まれた。したがって、職務給は基本給に含まれず、「職務手当」に分類されることになった。職務給が賃金全体の中でもっとも基礎的な賃金項目であった場合、それが基本給にならず、職務手当になることは、いかにも無理である。しかし他に方法がなかったのだろう。
 年齢給や勤続給、さらには学歴給のような賃金項目が統計用語としての基本給に分類されるにいたった理由は以上のようなものと推測される。しかし、そうした理由を理解することと、統計用語としての基本給概念が合理的であることとは、別問題である。すでに指摘したように、統計用語としての基本給の概念は合理的に説明されえない部分が多く、有意味な概念ではない。賃金を基本給、業績給、手当というように分類することは、分類基準に合理性がなく、日本の賃金について誤解を生むだけである。統計用語としての基本給概念は、使わない方がよい。

4 会社用語としての基本給

 戦時中の統制令のため、会社は基本給という言葉の使用を強要された。自然なこととして、基本給という言葉が会社に定着しはじめた。戦争が終わり、それぞれの会社において労働組合が経営主化を要求した時、その要求の中に工員の賃金と職員の俸給の一元化が含まれていた。戦時経済の中で工員の賃金と職員の俸給との支給額の差はなくなっていた。毎月に支給される俸給あるいは賃金について、日本鋼管の1945年8月における工員と職員の差はなくなっていた。工員の班長は一般男性職員よりも高く、職長組長クラスになると係長に匹敵するか凌駕する水準にであった。女性職員に至っては、一般工員の半分程度に過ぎなかった(長島修[2000]『日本戦時企業論』319)。こうしたことを背景として、戦前の俸給と賃金は戦後に統一され、賃金と呼ばれるようになった。そして、賃金における基礎的な賃金項目を基本給と呼ぶケースがでてきた。いわゆる電産型賃金体系にも、基本給という言葉が含まれていた。
 それぞれの会社の賃金体系には、その体系の中でもっとも基礎的と考えられている賃金部分がある。多くの場合、基本給とか「本給」という名称であり、場合によっては「本人給」、「本俸」、「俸給」などとも呼ばれる。いわゆる職務給制度を柱としている会社では、「職務給」がそれに該当する。こうしたは基礎的な賃金部分は、多くの場合、単一の賃金項目である。しかしたとえば、「本給は年齢給、勤続給、および能力給よりなる」というように複数の賃金項目がたばねられて基本給と呼ばれることもある。
 会社用語としての基本給概念が統計用語としての基本給概念とほぼ一致する場合もある。しかし多くの場合、会社用語としての基本給概念は、統計用語としての基本給概念よりも狭い。
 たとえば1986年における日立製作所の賃金体系は、<表4-13>のごとくであった。主要な賃金項目は、ごく簡単に言えば、次のようである。
「基本給」 年に一度、昇給する。昇給額は人事査定の結果に依存する。
「加給」  ブルーカラーおよび定型的なデスクワークをおこなうホワイトカラーについては、基本給×査定率で計算される。企画・立案・指導をおこなうホワイトカラーについては、基本給×査定率で計算される部分と、定額で決まる部分とがある。
「職務給」 ブルーカラーおよび定型的なデスクワークをおこなうホワイトカラーに支払われる。職務評価によって職務を等級づけし、それに応じて支払われる。
 実際にはもっと複雑であるが、ごく簡単なアウトラインは以上のごとくである(野村正實[1990]「賃金制度・労働組合とME化」徳永重良/杉本典之編『FAからCIMへ―日立の事例研究―』参照)。この日立製作所の賃金項目を分類すると、次のようになる。
 統計用語としての基本給 「基本給」+「加給」+「職務給」
 会社用語としての基本給 「基本給」
 したがって、統計用語としての基本給は日立製作所の「基準内賃金」の93%を占めるが、会社用語としての基本給はわずか37%を占めるにすぎない。







(2006年7月16日)定年問題

団塊の世代が引退する2007年問題がクローズアップされている。私は団塊の世代であり、当事者の一人ということになる。会社に勤めている同級生たちのなかには、すでに早期引退を選択した者もいる。東北大学では定年が63歳であり、私はあと4年半ということになる。しかし4年という年月はまたたく間に過ぎるだろう。もう目の前にあるといってもいい。

定年は私自身の問題でもあるので、高度成長期にサラリーマンたちが定年をどのように考えていたのか知りたいと思い、源氏鶏太『停年退職』(新潮文庫版、1965年)を読んだ。というよりも、正確には、読み返した。その昔、私が高専生だったとき、私は源氏鶏太の小説を何冊も読んだ。何がきっかけで高専生の私がサラリーマン小説を読み始めたのか、何冊も読んだということは面白いと感じたからに違いないが、どの部分を面白いと思ったのか、今となっては思いだせない。

源氏鶏太の小説タイトルは『停年退職』で、「定年」ではない。現在では「定年」と表記されている制度は、戦前では「停年」と表記されていた。戦後、人事院が「定年」という表記を使ったことから、1960年代になって「定年」の表記が一般的になった。

小説の主人公は矢沢章太郎で、彼は、T市の商業学校を卒業、同じT市の高等商業に進学、卒業後、直ちに東亜化学工業(資本金10億円、従業員千人超)に入社し、現在は東亜化学工業株式会社の厚生課長である。物語は、55歳定年の半年前からはじまる。
 彼はさしあたり、嘱託になれたら、と思う。同期で今は常務取締役の相原安夫をあてにしたい気持があった。章太郎と相原の関係は、学歴差もあって、微妙である。
「もっとも、章太郎は、そのことについて、一度も相原常務取締役に頭を下げていないのである。それとなく、ほのめかしたことはあるが。一方は、大学出、こちらは、高商出。そこにはじめから差がついていたけれども、一応は、出世を競った間柄なのである。結局、三十年の間に、常務と課長というような大差がついてしまったが、章太郎の方が普通で、相原は、抜群の出世をしたことになる。そのくせ、章太郎は、相原の実力については、どうしても認められないのであった。」(p.15)
 結局、相原常務から、嘱託の話はまったくなかった。章太郎は、脳裡から、定年後の生活如何という問題を消し去ることができない。彼は、あらためて定年制度に怒りを覚える。
「しかし、昨日も、今日も、そして、明日も、何百人、あるいは、何千人のサラリーマンが、停年退職のために、各職場から消え去っていきつつあるのだ。そして、最後の目には、何んとなく、こそこそと。
 サラリーマンが転勤するときには、たいてい、たくさんの人々が駅へ見送りに来ている。よく見なれた風景なのだ。発車と同時に、拍手が巻起り、あるいは、バンザイが三唱される。
 だが、転勤よりももっと重大な停年退職の際には、たれも会社の玄関まで送っていかないのは、何んとしたことであろうか。今日、停年退職になった長岡のように、会社の窓を見上げてさようなら、さようならといいながら、孤影悄然として去って行くのである。」(p.54)
 「章太郎は、昨夜の同窓会の席上で、昨日停年になった長岡が、人々の帰ったあとのガランとした事務室で、明日からは他人の机となるその机をなぜて、うっすらと涙ぐみながら別れを惜しんだ、という言葉を思い出していた。
(きっと、俺だって、そうするだろう)
 章太郎は、卓上カレンダーをめくって、九月一日を出した。そこへ、赤鉛筆で、「停年退職」と、書き、更に、八月一日のところに、「停年退職一カ月前」と、書いた。
 七月一日のところには、停年退職二カ月前と書きたいくらいだったが、さすがにそれは思いとどまった。
(この八月一日の.ころには、停年退職後の方針について、何んとか決っているだろうなァ)
 ぜひ、そうあってほしいのだった。そのころになっても、嘱託としての延長も認められず、次の就職口も決っていなかったら、悲惨である。あせっているだろう。そして、そういう自分を、課員たちは、どんな目で眺めるかわからないのた。率いにして、今のところはまだ、課員たちの章太郎を見る目に、特別の変化はないようだった。しかし、これからは日に日に微妙な変り方をしていくものと覚悟しておくべきだろう。
 (だからといって、俺は、虚勢を張りたくないし、卑屈にもなりたくないぞ)
 出来得るなら、淡々として、停年退職の日を迎えるようになりたいものであらた。しかし、そのためにも、昨夜決心しておいたように、停年退職後の生活のために、一日も早く必死の工作をしておく必要があるのだ。」(pp.98-99)
 しかし、章太郎の再就職のめどはつかなかった。定年までの残る時間が3カ月になってしまった。
「章太郎は、その日付を見つめながら、いいようのないほどのあせりを覚えていた。あと三カ月しか、この会社にいられぬのだ、ということよりも、いまだに、次の就職先が決っていない、ということの方が、重大な問題になっていた。
(俺って、余っ程、運が悪いんだな)
 自分で、そうなげきたい程、就職運動は、うまくいっていなかった。八分通り間違いない、と思っていた話がこわれたり、本当か嘘かわからないが、「君、残念だったよ。昨日、来てくれたらよかったのだ。実は、手頃な口が一つあったのだが、さっき、決めてしまったんだ。本当に、惜しいことをしたな」と、いわれたりした。
 そういわれては、章太郎としても、返す言葉がないのであった。
「もし、別の口があったら、そのときには、ぜひお願いします。もちろん、勤務の条件とか、月給とかについては、一切おまかせいたしますから」
「わかった、心がけておこう」
 しかし、アテに出来ないことは、過去いくたびかの経験で、はっきりしていた。はっきりしていながら、万に一つの期待から、必要以上に探く頭を下げている自分が哀れになってくる。それ以上に、嫌になってくる。しかし、どうにもならなかった。」(pp.570-71)
 
 源氏鶏太は、かならずといっていいほど、「ユーモア作家」とい呼ばれてきた。しかし『停年退職』には、一貫して重苦しさがのしかかっている。もちろん、最後の最後になって、再就職先が決まり、娘の幸せも実現して、ハッピーエンドになるが、それに至るまでは再就職先の決まらないまま、定年退職の日が近づく恐怖感・焦燥感がえがかれている。さしもの源氏鶏太も、定年退職という重いテーマについては、軽やかに書くことができなかったのであろう。

源氏鶏太が言いたかったことは、気力も体力も能力もそれまでと変わらないのに、ある日、会社を去らなければならないという不合理さであった。そしてそれを受け入れることのできない主人公・矢沢章太郎のやり場のない憤りであった。さらに、本人にとってきわめて深刻な問題である定年問題について、やがて必然的に定年問題に直面するはずの年若い人々がその深刻さにまったく無頓着であるというシュールリアリズムのような世界を描くことであった。

その昔、私は高専生の時にこの『停年退職』も読んだはずである。その時にどのような感想を持ったのか、まったく思い出すことができない。しかし今回読み直してみて、源氏鶏太の言いたいことは、実感としてとてもよく理解できた。小説としての出来はいいとはいえないが、会社から追い出されるサラリーマンの無念さは表現されている。

私は、私自身がまもなく定年であるという現実もあり、サラリーマンから見た定年制の不合理性を批判しなければならないと強く感じている。それは同時に、定年制の存在を合理化する経済学を批判することでもある。そこで、私のラジアー・モデル批判を公開しておく。ラジアー・モデルは、年功賃金制度では、若いころには労働者の賃金が限界生産力を下回っている。ある時点から労働者の賃金が限界生産力を上回るようになる。若い頃の未払い分と、ある時点以後の過払い分とが同じになる時点が、定年である、というおなじみの仮説である。私は、ラジアー・モデルには根本的な欠陥があると考えている。公開するのは、私が出版を計画している本『日本の雇用慣行−その全体像−』の第2章「定年制つき終身雇用」の一部である。

 LazearCritics.pdf へのリンク




(2005年11月9日)

 目下、日本的雇用慣行の全体像を明らかにすべく、本を書いている。書き下ろしで出版しようと考えている。本のタイトルとして、『日本的雇用慣行−−その全体像の再構築−−』を予定している。定期採用、定年制、昇進、賃金、労使関係について、実証的に確実と思われる事実にもとづいて、日本的雇用慣行の全体像を構築したいと考えている。
 「再構築」と題する理由は、日本的雇用慣行について何の実証的根拠もない命題が、「様式化された事実」とみなされ、まかり通っているからである。私はこのような現状に危機感をいだき、『知的熟練論批判』と『日本の労働研究』(ともにミネルヴァ書房)で厳しく批判した。私の批判を受け入れない人たちは、私がこれからさらに批判を重ねたとしても、受け入れることはないであろう。私の批判を説得的だと認めてくれる人は、私がさらに批判を重ねても、同じような批判の繰り返しにすぎないと思うだけであろう。つまり、批判の段階は終わったということである。次の段階は、当然、私の積極的な見解を発表することである。
 本の執筆は、作業量として6割程度が進んだ。私のおこなっている作業の前宣伝として、定期採用にかんする部分をここで公開する。これは、「第1章 学校から「実社会」へ」の第7節である。
 もちろん最終稿ではない。ごくわずかな部分とはいえ、まだ活字になっていない原稿を公開するにあたって、気になっていることがある。著作権の問題である。誰かが、ここで私が使っている資料を使って、私の本が出版される以前に論文として発表する可能性がある。そのため私は、ここに公開した文章について、2005年11月9日にアップロードしたことを明記し、priorityを確保しておく。
 著作権について私が敏感なのは、これまでに二度、著作権がらみの問題に関係したからである。正確に言えば、関係した、というよりは、関係させられた、というべきであるが。
 ある時、週刊誌が記者が私に電話してきた。某国立大学で醜い派閥争いがおこなわれている。その一環で、多数派は、自派の助教授を教授にしようと画策している。しかし助教授の研究業績が少なく、少数派が抵抗している。数少ない研究業績を少数派が調べたところ、ある論文が野村の本からの盗作になっている疑いが出てきた。ついては、その論文について野村のコメントをほしい、という内容であった。私はその論文を知っていた。私から、その論文は盗作に近いものだ、という言質を取りたいという意図は明々白々であった。私はすべてノーコメントで押し通した。後日、某国立大学の派閥争いは週刊誌の記事になった。幸いなことに、盗作問題には触れられていず、もちろん私の名前もでなかった。
 もう一件は、同じ職場の同僚の盗作事件である。同僚が盗作し、それが地元新聞に報道された。関係者の努力で、盗作問題については不問にする、ということになった。ところがこの同僚が別の箇所でも盗作していることがわかり、辞職することになった。それからしばらくして、ある知人が私に、地元新聞に匿名の手紙を送りつけたのは野村であろう、そのことはみんなが知ってるぞ、と言った。あまりにも意外な噂に怒る気力もなく、私が何を言っても、見苦しい弁解と受け取られるだけであろうと考え、何もいわなかった。私はこの同僚と仲が良いわけではなかったが、反目し合っているわけでもなかった。私にとってはどうでもいい人であり、無関係な人だった。しかも彼は別の大学に移ることが決まっていた。後日、事情に詳しいある人から、新聞社に投書したのは職場の人ではなく、別の大学の某々で、盗作された人とこれこれの関係があるから怒ってそういう行動に出た、と教えられた。もちろんその真偽は確かめようもないが、私はありうる話だと思った。それにしても、私が投書したという噂を信じた人たちは、いまでもそう思っているであろう。事実無根な噂をだれが最初に流したのか分からないが、こうした噂を流した人間を許せないと思っている。また、この盗作事件で本人はもちろん、関係者の右往左往ぶりを間近に見て、盗作の重大さを実感した。
 


定期採用の意義と歴史


7 定期採用

 ある一定の経済水準に達し、近代的な学校制度の整っている国においては、国民は学校終えてから仕事に就く。その限りでは、いずれの国においても、学校と就職とが密接な関係にあることは間違いない。しかし日本には、他の先進国にはない独特の採用慣行が存在している。定期採用制度である。
 日本の大会社が大学や高校の新規学卒者を定期採用していることは、日本では周知の事実である。先進国の中で定期採用制度がユニークなものであることも、かなり知られている。しかし、ある制度や慣行の存在が知られていることと、その制度や慣行が経済・社会・会社にたいして持っている意味が認識されていることとは、まったく別のことがらである。
 近年、教育社会学が中心となって学校から職業への移行過程の研究がおこなわれるようになり、定期採用制度について関心が高まってきた。しかしながら、教育社会学からの研究は定期採用プロセスにおける学校の役割に重点が置かれ、定期採用制度が経済・社会・会社に対して持っている意味については、ほとんど検討されていない。
 定期採用制度の重要性を強調したほとんど唯一の論者は、田中博秀である。田中は労働省において労働政策の実務と立案にかかわることによって、定期採用制度の重要性を認識した。田中は、定期採用制度の重要性を、主として定期人事異動方式との関連で説明している。すなわち、毎年4月に大量の新規学卒者を採用するため、それに押される形で定期人事異動が必然化する。定期人事異動を繰り返すことによって従業員はスキルを形成する。その結果として雇用の長期継続性と集団性という日本的雇用慣行の2つの特質が確保される、というのである(田中[1980]377-81)。
 田中が定期採用制度の重要性を強調したことは正しい。しかし定期採用制度の重要性を定期人事異動との関連でとらえることには問題がある。たしかに定期採用制度は定期人事異動へのプッシュ要因である。しかし、定期人事異動は定期採用制度と関係なくてもおこなわれうる。今のところ、定期人事異動がいつ頃からどのような理由ではじまったのか不明なので、定期人事異動については今後の研究を待たなければならない。
 
7.1 定期採用の意義

 定期採用とは、会社が毎年ないしほぼ毎年、高校や大学などの新規学卒者を卒業と同時に採用することである。毎年あるいはほぼ毎年採用をおこなうことのできる会社は、ある程度以上の規模の会社である。規模の小さな会社は、毎年あるいはほぼ毎年採用し続けることはできない。
 定期採用制度の意義は、次の点にある。
 (1)定期採用においては、在学中の学生を審査し、内定を出す。このことは、会社が学校における専門教育を軽視していることを示している。
 まず大学についていえば、1990年代半ばまで、大半の国公立大学は教養部制度をとっていた。1年生と2年生は教養部に所属し、主として教養科目を学ぶ。3年生と4年生は専門課程に所属し、それぞれの専門を学ぶことになっていた。定期採用においては、4年生を対象としてリクルート活動がおこなわれる。したがって、採用審査をおこなう段階で会社が知りうる学校の成績は、専門課程としては3年生の1年間の成績だけである。これで学生の専門知識を審査できるはずがない。
 1990年代半ば以降、多くの大学において教養部は解体された。しかしカリキュラムとしては、以前よりも若干は専門科目が増えたとはいえ、1年生及び2年生の授業が教養科目中心であることには変わりない。教養部の解体によって、専門科目の教育について事情が大きく変わったわけではない。
 会社は非常にしばしば、大学における教育の不備を批判するが、定期採用制度そのものが、大学における専門教育をスポイルするメカニズムを内包している。4年生のある時期、数カ月にわたって就職活動を余儀なくされ、その期間、授業に出ることも困難になる。そして就職が内定をした後は、単位を取って卒業する必要はあっても、もはや学校の成績は就職とは関係なく、勉学に励むインセンティブはほとんどない。定期採用をおこなっている会社に大学を非難する資格はない。
 大学ほどはっきりした形はとらないとしても、高校においても会社は審査できるのは1年生と2年生の成績であり、高校教育における成績全体を評価しているのではない。
 (2)会社が大学における専門教育を軽視していることと表裏一体になっているのは、定期採用における採用グループがきわめて大ざっぱにくくられていることである。通常は、大卒文系(事務系)を何人、大卒理系(技術系)を何人募集という形で募集要項が発表される。理系といっても、機械系、電子系、バイオ系などできわめて大きな違いがあり、さらにたとえば機械系の中でも違いがある。同じように文系といっても経済学、経営学、会計学、法学、社会学など専門ごのとの違いは大きい。しかし理系については専攻領域がある程度考慮されるが、事務系ではそれらの違いはほぼ完全に無視される。会社は特定の職種に適合した人間を採用しようとしているのではない(1991年のソニーからはじまった職種別採用については、後に検討する)。
 (3)定期採用は、学歴別人事管理の前提であり結果でもある。定期採用においては、高卒と大卒とを明確に区分けしている。もちろん、職業安定法によって会社の採用活動が制限されていることが、高校生と大学生を区分けするひとつの理由ではある。会社は、大学生に対しては直接コンタクトをとることができる。しかし高校生については、かならず公共職業安定所(職安)を通して学校に求人を申し込むことになっており、高校生本人との直接コンタクトを禁止されている。しかし大卒と高卒を画然と分けて採用する主たる理由は、こうした採用実務上の問題にあるのではない。会社内における学歴主義的処遇が定期採用の際における大卒と高卒の区分を必要とし、そして、定期採用において大卒と高卒が画然と区分されていることが、会社内における学歴主義を強化している。
 (4)定期採用制度においては、会社は職種ごとに新規学卒者を雇っているのではないため、職種別賃金は成立しない。また職種別賃金が成立していないがゆえに、定期採用が可能となっている。
 (5)大卒の定期採用は、もともとは男性のみの採用であり、女性の採用を予定していなかった。1985年に成立した男女雇用機会均等法にともなって、総合職コースと一般職コースとを設けた会社が少なからずあったことが、それを物語っている。つまりそれ以前の大卒の定期採用は事実上の総合職コースであり、男性のみがそれに該当した。男女雇用機会均等法によって大卒女性に門戸を開かざるを得なくなるとともに、一般職コースという新たな制度を設けて、総合職の大卒女性を少数にしようとした。
 (6)高卒者の定期採用では全員が同じ年齢で入社する。大卒者の定期採用も、大学入学試験のための浪人や大学での1年程度の留年があるとしても、ほとんど同年齢の者がいっせいに入社する。それぞれの学歴において、同じ年に入社した社員がいわゆる同期の桜である。社内における昇進競争は、この同期の桜の仲間内で、だれが出世頭か、だれが振り落とされたのかをめぐっておこなわれる。すなわち定期採用のために、昇進競争がくり広げられる同質の集団が形成される。
 (7)以上のように、定期採用制度は会社の人事管理にとって重要な意義を持っている。しかし、定期採用制度が会社による人事管理にとって重要な意義を持つための前提条件が存在している。それは、定期採用によって入社した従業員が長期的に同一会社にとどまる、という条件である。長期雇用の入り口としての定期採用制度は会社の人事管理に重要な意義を持っている。採用された従業員が短期間で退社するならば、採用方法が定期採用であろうと中途採用であろうと、採用方法が会社の人事管理に大きな意味を持つことはない。大会社に入社する男性は長期雇用が普通である。したがって定期採用制度は男性にとっては重要な意義がある。しかし女性は、学歴を問わず、長期勤続が期待されていない。そのため定期採用制度に関連した人事管理の対象外と見なされてきた。

7.2 定期採用の歴史

7.2.1 定期採用の成立プロセス

 会社が新規学卒者を定期的に採用することは、1895年の日本郵船と三井からはじまった、と指摘されている(竹内[1995]162)。新規学卒者の定期的採用が一般化するのは、20世紀になってからであった。大会社が新規学卒者の定期採用に向かうプロセスを、三井物産の事例で見てみよう(以下、三井物産の事例については、若林[1999]による)。
 三井物産では、日清戦争(1894-95年)頃までは、ごく一部の学卒者(東京高商)を採用していたにとどまり、採用の主力は「子供」であった。「子供」は伝統的商家の採用形態で、小学校卒程度の少年を住み込みで採用した。当時の三井物産は旧来の集散地問屋の事業を中心としていたので、「子供」の採用で間にあっていた。東京高商出身者は海外拠点に派遣される要員として採用されていた。
 しかし日清戦争を契機として三井物産においては国内事業が縮小し、海外事業が急膨張した。この事業の転換にともなって、三井物産は新規学卒者の大量採用をはじめた。それと並行して三井物産は、1900年前後に、中学卒業程度の少年を対象として、「清国商業見習生」や「支那修業生」、さらに中国以外の海外拠点にむけた人材養成として「貿易見習生」をはじめた。しかしこうした社内の人材養成制度は機能しなかった。「貿易見習生」については最初の二年間に二人を派遣したにとどまり、「支那修業生」も成果を上げることなく、1913年に打ち切られた。
 学卒者の大量採用をおこなうために、三井物産は1899年から高商レベルの学科試験による選抜採用を本格化した。また、1912年に人事課を創設し、人事管理の官僚化をはじめた。1910年代には「子供」からの職員登用制度を放棄した。新規学卒者の採用がここに確立した。
 三井物産の事例は、会社の業務内容の変更と採用給源とが密接に関係していたことを明らかにしている。(補説1-5 20世紀初頭の採用方法)

7.2.2 定期採用制度の展開

 第一次大戦(1914-18年)は未曾有の大戦景気をもたらし、日本経済は急拡大した。第一次大戦は新規学卒者の定期採用制度にも重大な影響を与えた。第一次大戦期に新規学卒者の定期採用が完全に定着した。それだけででなく、完全な売り手市場という条件の下で、卒業前に就職が決まるという慣行がはじまった。「惟ふにこの卒業前に就職口を決定すると云ふ弊風は戦時好況時代に学校卒業生が飛ぶように売れた結果、少しでも優秀な成績の学生を引張らんとする各銀行会社の新社員採用競争が行われたのによる」(壽木[1929]66-67)。
 卒業前に就職が決まるという慣行は、第一次大戦後も続けられた。1920年代後半、大学生・高専生の採用詮衡は卒業前年の11月ないし12月におこなわれていた。そのため「学生は学校卒業期になると就職運動にばかり狂奔して遂にその学業を捨てて顧みないといふ風を生じ、これがために卒業年度に於ける成績が、1年、2年当時に比して著しく悪いと云ふ傾向を示し、甚だしきに至つては、就職運動はどうやら奏功して就職口は決定したが、そのために学業を疎かにし成績が悪くて卒業出来なかったなどと云ふ弊害をさへ生じて来た」(壽木[1929]66)。
 そこで1928年3月、日本銀行、正金銀行、三菱銀行、三井銀行など有力銀行の頭取重役の集まりである常盤会例会で、採用詮衡時期の変更について手紙を回付することで話がまとまった。翌月、丸の内銀行集会所に銀行や会社の重役のほか、東京帝大、東京商大、慶應、早稲田などの学校関係者、さらに文部省から学務局長が出席し、採用詮衡の時期を学校卒業後とすることで合意した。それを受けて、18名(日本銀行総裁、正金銀行頭取、勧業銀行総裁、興業銀行総裁、第一銀行頭取、三井銀行常務、安田銀行副頭取、川崎第百銀行頭取、三菱合資総理事、三菱銀行会長、三井物産常務、日本郵船社長、東京海上会長、住友合資総理事、住友銀行専務、三十四銀行頭取、山口銀行常務、大阪商船社長)の連名で、「新社員の詮衡一般に早められ学校卒業前に行はれ候結果学生の修学上其他に於いて種々弊害を伴ふのみならず採用者側としても時多くは歳末繁忙期に際し時期を得ざる次第」なので、学校卒業後に詮衡すると決定した、ついては貴社も賛成実行をお願いしたい、と呼びかけた。民間会社によるこのような協定と並行して、文部省の強い要請によって、官庁も卒業後の採用を決定した(壽木[1929]67-69)。
 卒業後に詮衡するという協定の対象になったのは、1929年3月卒業生からである。学生は採用時期の変更に、「ますます就職難問題に敏感になり、....点数の取り易い教授の講義ばかりを多く聴いて、成績表に「良」とか「優」をより多く揃へようとして汲々と」(半沢[1929]8-9)するようになった。
 協定は、最後まで協定締結会社として残ったのが日本銀行、第一銀行、横浜正金銀行、三井物産、三菱合資、安田保善社の六社であったため、後に「六社協定」と呼ばれるようになった。この協定ではさらに、呼びかけに応じた会社が同じ日に一斉に詮衡をおこなうこととしていた。学生のかけもち応募を許さないためである(「会社銀行の採用は各処同一日に詮衡」『帝国大学新聞』1928年5月28日)。
 協定が成立した1928年、日本経済は前年の金融恐慌から立ち直ることができず、その後、日本経済は世界大恐慌に巻き込まれ、1930年には昭和恐慌となった。いうまでもなく、定期採用市場は完全な買い手市場であった。完全な買い手市場、日本を代表する大会社18社の合意、文部省や学校当局者も承認、という条件がそろっていたのであるから、協定は、卒業前の採用決定という「弊風」を是正することができるかのように見えた。しかし協定の実行は困難であった。協定は次のような運命をたどった。
 協定が最初に適用される1929年3月卒業生について、「今年卒業の学生は就職難の不安が二ヶ月延長されただけで不安は増大し、学校当局もこれを見捨てておくわけにも行かないので「協定の趣旨尊重」を内々破って協定以外の会社に向かつては卒業前の就職運動を始めかけた向もあり、就職難不安の時潮は「卒業後選考協定」最初の試みを裏面では押し倒そうとしてゐる」(「大会社は物いはずいら立つ卒業生」『東京朝日新聞』1929年1月18日)と報じられた。それでもがさすがに初年度だけに、「今年から34の大会社大商店が申し合せをして3月卒業後に採用する事になって居り、既に内定した数社も採用者の氏名を絶対に発表しない。卒業後採用の会社同盟に加入していない会社−−例へば朝日新聞社の如きも同盟に遠慮して3月末に採用試験を行ふ程である」(「卒業試験の終わる迄は採用者の氏名を発表せぬ」『三田新聞』1929年2月1日)と、協定は重みを持った。ちなみに、今日の定期採用で使われる「内定」という言葉は、この協定に関連して用いられるようになったと思われる。それ以前はたんに「採用決定」といわれていた。
 2年目の1930年3月卒業生になると、協定の雲行きはかなり怪しくなった。東京帝大では卒業前年の11月に「工学部の如きはすでに住友、日立などから五六名の採用申込み」(「整理緊縮の叫びに益々深い就職難」『帝国大学新聞』1929年11月11日)がなされていた。慶應義塾大学では、30年3月末までに28社に採用決定されたが、その中に三井物産、住友合資という協定呼びかけ18社に名を連ねた会社も含まれていた(「緊縮の影響で就職の苦しさ」『三田新聞』1930年3月30日)。
 3年目の1931年3月卒業生については、「所謂協定大会社銀行はいづれも去月末に面会を行ひバタバタと採用者を発表した」(「運動奏功か就職戦好望」『一橋新聞』1931年4月13日)。ここでいう「去月」は3月のことであるから、卒業試験後の採用詮衡という点では辛くも協定の精神を守った形になっているが、もともとは4月以降に詮衡という方針であったので、協定は破られたことになった。
 それだけではない。協定が存在するために「採用」ではなく「内定」となっており、それが学生を不安にさせた。「既に決定したものは1月末試験の行はれた朝日新聞社及びその後の大阪商船、東京電燈、日本徴兵僅か数ヶ所があるばかりで、その他は例の「卒業後採用の申合せ」の方針に準じて決定を留保し単に内定を伝へるだけのところが多い、ために内定者は何とない不安に駆られて更に各方面へ履歴書を提出するのでただでさへ繁雑な事務室の手数を倍加してゐるばかりでなく、もしその内定者が別方面へ再び採用された折りにはいずれか一方の就職口が無駄なのだから、就職希望の学生にとってもこの内定といふことは甚だ迷惑なわけである」(「就職先を蹴飛ばす不徳義な秀才組」『帝国大学新聞』1931年3月2日)。
 4年目の1932年3月卒業生については、「例の協定会社でも優秀な学生を抜擢せんと協約を破つて既に内々に学校に推薦を依頼して決定を急ぐ所も二三ある」(「就職戦勝者ぼつぼつ現はる」『一橋新聞』1932年1月23日)、と協定会社のなかから協定違反がでていた。
 そのため協定が改められ、4月以降の詮衡という協定から1月15日以降の詮衡という協定に変わった(「就職陣に一大颶風 六社協定廃棄さる」『帝国大学新聞』1935年9月23日)。当時は、大学によって異なってはいるものの、卒業試験は2月か3月であった。したがって1月15日以降の詮衡という協定は、卒業試験前に採用詮衡をおこなってもよいことを意味していた。1928年には、卒業試験前の採用詮衡は「学生の修学上其他に於いて種々弊害」をもたらすので、4月以降に採用詮衡をおこなうと協定したのであるから、1月15日以降の詮衡という協定は、「学生の修学上其他」の「種々弊害」に目をつぶることを意味していた。卒業試験前の採用詮衡を認めるのであれば、以前のような11月12月でもいいはずである。1月15日以降としたのは、1928年に協定を結んだときのもうひとつの理由、11月12月では「歳末繁忙期に際し時期を得ざる」という理由によるのであろう。
 5年目の1933年3月卒業生については、採用環境がいちじるしく好転した。「インフレ就職」という言葉が就職関係者によって語られたように、景気回復が目に見える形であらわれ、学生の就職難の時代を過去のものにしようとしていた。圧倒的な買い手市場においても優秀な学生を確保しようと協定破りがおこなわれていた以上、就職事情の好転とともに協定が完全に骨抜きになることは必至であった。「今年は「本年に限り」と前置して「二流会社と競行して優秀学生をとりたい」といふ理由で一流会社のいはゆる「協定」が破れドッと景気の好い採用申込が殺到」(「遂に珍景を生む」『一橋新聞』1933年1月27日)したのも当然であった。
 6年目の1934年3月卒業生は、さらに有利な就職となった。工学部と比べてはるかに厳しい就職難に悩んでいた東京帝大経済学部でも、「学士292名を送り出した経済学部の就職はかねてから国内経済界の膨張により好成績を示すものと期待されてゐたが、果して同学部未曾有の好率を示し経済学部万歳の声」(「就職率7割6分」『帝国大学新聞』1934年4月16日)があがった。就職率の好転とともに「学士様」の価値は回復し、東北帝大では、「宮城県を始め、秋田青森等の東北各県の富豪、素封家から目にも入れたい愛娘の為に学士様の婿を貰つてやりたいからとの依頼状が学生課の机上に山積をしている。既に80通近くも来てゐるが、中には70万円の財産家からの依頼もある。また素晴らしいのは優しきお嬢様の手になる切なる依頼状まで付いてゐるものさえあり学生課員を面食はせている。この所本年卒業生大当りで就職せんか金的を見事射落とさんかに迷つてゐる者がかなりある様である」(「東北の就職風景 学士様なら婿に貰らはう」『帝国大学新聞』1934年2月12日)。
 もはや「六社協定」の正式破棄は時間の問題であった。そして1935年6月、三菱の提案で協定は正式に破棄され、各社がそれぞれ自由に採用詮衡の時期を決めることになった。協定の廃棄理由を安田保善社が次のように語った。
「1月15日以降を試験施行と定めてゐたが協定社内で去年2件も違反が出たので六社協定はやめる事とした。これは例へば小さな会社でも早く試験を行へば学生は先ずそれに取りついて結局は狙つてゐた大会社へも入る事の出来ない様な現状では仕方はない。六社協定に代わる理想案として日本全部の一流中流会社を網羅する事も考へられるが何分こんな協定は違反に対する制裁規定が作られないので現実的には如何ともし難い。」(「就職陣に一大颶風 六社協定廃棄さる」『帝国大学新聞』1935年9月23日)
 1937年初頭には、「2、3年前までは民間会社の方でも、卒業まで採用は見合はせるといふ「紳士協定」ができてゐたのだったが、元来、「紳士道」とか「紳士協定」などといふものは、ニッポン人の肌に合はない。そこでそんなものは待合のツケの如く破り捨てられ現在、それを守つてゐるのは僅かに官庁方面あるのみだ」(木下半治「大学出の就職戦線」『文藝春秋』1937年3月号、253)、という状態であった。その官庁でも、戦時経済の進展とともに民間会社が採用を急拡大したため、優秀な学生を確保するために、1939年春の卒業生から詮衡を卒業前年の11月初旬に早めざるをえなくなった(東京大学百年史編集委員会[1985]916)。
 4月以降の詮衡という1928年の協定は以上のようにして消え去った。これ以後、卒業後に詮衡をおこなうという協定は、今日にいたるまで二度と試みられることがなかった。また、見通しうる将来においても、そのような協定が成立し機能するとは考えられない。
 付言しておけば、1920年代末、30年代初の未曾有の大卒就職難は大きな社会問題であった。「就職王国」と自他共に許していた東京商大でも、1930年3月卒業生272名のうち卒業前および卒業直後に就職できたのは、学校推薦88名、自力での就職12名、計100名であり、研究科に残った26名を除いて、41%の就職率にすぎなかった(「商学士の就職率記録を破って激減」『一橋新聞』1930年4月14日)。しかしこのことは、卒業生の過半が中長期にわたって失業していたことを意味していない。卒業後8ヵ月後の報道によれば、会社就職161名、教員就職15名、それに学校に就職を依頼しない者45名を就職が決まったものと考えると、総計221名が就職していた。卒業生のうち研究科に残った者を除いた就職率は90%になる(「やつと落着いた今春の卒業生」『一橋新聞』1930年12月8日)。
 卒業後に会社に就職した人たちがどのような会社に就職したのかは記事に記載されていないが、卒業前あるいは卒業直後に採用する「一流会社」でないことは間違いないであろう。社会問題となった大卒の就職難は、それまで当然視されてきた大卒の「一流会社」への就職難であって、それ以外の会社を含めればなんとかなった、と考えるべきであろう。また、東京商大の事例は、大学は卒業後も卒業生の就職を斡旋していたことを示している。
 戦時経済統制が進む1938年に、学校卒業者使用制限令によって、大学の工学部と理工学部、工業専門学校、工業実業学校の学生の就職は、国家統制となった。すなわち、これらの卒業生を希望する会社は、卒業前年の7月末までに所轄地方長官あてに大学、専門学校、実業学校別に、かつ機械、冶金などの学科ごとに希望する人数を申請することになった(学校卒業者使用制限令施行規則)。卒業前年の7月末までに申請することは、もちろん、卒業前に就職先を決めるためであった。
 学校卒業者使用制限令は工学部学生の就職のあり方を大きく変えたわけではなかった。工学部ではもともと、各学科の主任教授に求人が寄せられ、主任教授が内詮衡をおこなう慣習があったからである(東京大学百年史編集委員会[1985]933)。理工系学生の不足は深刻で、1941年度の配置計画では、大学生にかんして事業主からの申請数13,334件にたいして卒業生の配分は1,562名、専門学校卒業生にかんして申請数31,888件にたいして配分は6,027名にすぎなかった(伊藤[1999]227)。
 ちなみに、学校卒業者使用制限令は会社の採用担当者に大きな負担を強いた。東京瓦斯の採用担当者は、次のように回想している。
「当社においても東京瓦斯の鶴見工場、東京瓦斯化工の低温乾溜工場と横浜工場以外は容易に技術者採用は不可能であった。中等技術者(いまの高校卒)を採用しようとすれば、あらかじめ事業所別、学科別に理由を付して人員を認可申請する。役所はこれに基いて府県別に事業所単位に人員を割当てる。例えば横浜工場に愛媛県の応化二名とか、鶴見工場に山形県の機械一名とかいうように。この場合、本社とか営業所等平和的色彩の強い事業所で申請しても、まず零回答であった。採用係員はこれによって割当てられた地区の学校を廻って先生と打合わせ、生徒を直接集めて大いに会社のPRを行ないながら売り込みにこれ努めるのである。この役目は大体私が受持っていた。たまたま関東近県が少なく、遠隔の地が多かったため、大抵一泊以上の出張になる。交通状態も終戦直後には比すべくもないが、次第に悪化をたどり、食糧事情も苦しくなりかかったころなので楽な出張ではない。それにお墨付きこそもらってあるが志望者の有無は行って交渉して見なければわからない。」(東京瓦斯[1972]891)
 文科系学生は学校卒業者使用制限令の対象外であった。会社への就職の仕方も変化なく、卒業前に採用試験がおこなわれていた。東京大学の例では、1940年には法学部の卒業生の96%、経済学部でも卒業生の99%が就職した(東京大学百年史編集委員会1985]918、921)。しかし就職後すぐに徴兵されるケースが多く、時代は暗かった。

7.2.3 戦後の定期採用

 1945年8月15日に戦争は終わった。戦後初の大学卒業生は1945年9月卒業生であった。戦時中、1942年度卒業生は通常であれば1943年3月に卒業するはずであったが、戦時下という非常事態で6ヶ月繰り上げて1942年9月に卒業した。この繰り上げ卒業はその後も続けられ、敗戦の翌月に大学の卒業式がおこなわれたのである。
 45年9月卒業生がどのように就職したのかは不明である。ただ、北海道帝大工学部卒業生について、「昨年度の卒業生が最近漸く片付いた形」(「新学士就職状況」『北海道帝国大学新聞』1946年10月15日)と報告されているので、おそらく、卒業時点で就職した者は少なく、卒業後1年のうちに何とか就職先を見つけたものと思われる。
 1946年9月は、鉱工業生産指数が戦前(1931-33年平均=100)の31.5%にすぎなかった。その9月に戦後第2回目の大学卒業生が出た。就職難が心配されたが、意外にも会社の新卒採用意欲は高く、早稲田大学の学園学生課人事係長は、「敗戦後の就職状況は変転をきはめ深刻と思はれてゐたが幸ひ最近になり、求人申込も次第に増加しつつあることはほんとうにうれしいことだ」、と語り、実例として、日本製鐵人事課の「事務員約10名、技術者約15名を本年度卒業生から採用する予定」、朝日新聞人事部の「今年は東京、大阪で約10名位採用する予定」という談話を紹介している(「今年の就職戦線はどうか?」『早稲田大学新聞』1946年10月1日)。東京帝大では、その就職率が景気動向を敏感に反映する経済学部においてさえ、「卒業総数222名中卒業試験終了の26日で決定者20名は些か淋しいが求人数二百数十と予想に反する好景気」(「卒業近く鰻のぼり」『帝国大学新聞』1946年10月2日)であった。もともと就職には強い第一工学部については、「予想される就職難もこの学部では案外問題はなく現在各教室を通じ就職率4分の3と予想される」(「就職戦線異状あり」『帝国大学新聞』1946年9月3日)状態であった。
 ここで注目すべきことは、東京帝大経済学部について、数は少ないとはいえ、卒業を前に就職が決定している学生のいることが、はっきりと報告されていることである。1945年9月卒業生については資料が見当たらないので不明であるが、敗戦1年後には卒業前の定期採用がおこなわれていた。
 1947年3月には、東京帝大で「卒業式のない卒業生」が出た。復員した学生が大学に戻ってきた上に新しく入学してきた学生がおり、学生数が多くなりすぎたので、規定の単位数を取得すれば3月に卒業免状を渡すと決めた学部があったからである。この措置で法経文農あわせて約350人が卒業した。そのうち経済学部の卒業生は約120名で、「採用申込みは昨年9月程ではないが可成り来ている。昨年に比して大物が少くインフレの波に乗って業界に飛躍しようという新興会社が堂々たる?企業計画を並べているのが目立つ」(「卒業式のない卒業生」『帝国大学新聞』1947年2月26日)と報告されている。この不規則な3月卒業生についても卒業前の定期採用がおこなわれたことは間違いない。
 1947年9月卒業生になると、東京帝大経済学部で「9月卒業予定者総数380名、うち就職のきまったものは350名、卒業生のうちには就職を事務室に申込まなかったものもいるから、申込んだものは全部決定したことになる」(「9月30日に卒業式」『帝国大学新聞』1947年10月2日)、と全員が卒業前の定期採用で就職した。
 1948年からは再び3月卒業になった。東京帝大経済学部ではもちろん、「500名卒業のうち27日現在決定者数は200名、3月末までにはほとんどが就職できる見込」『帝国大学新聞』1948年3月4日、と卒業前の定期採用がおこなわれていた。
 以上の事実から確認できることは二点ある。第一に、1946年9月卒業はさすがに就職が厳しかったものと推測されるが、翌年以後は就職がそれほど困難だったわけではなかった。第二に、それよりも重要なこととして、卒業前の定期採用という慣行は、会社と大学にとってもはや変更不可能なまでに制度化されていたことである。敗戦経済という見通しのきかない経済環境の中で、会社は卒業前の定期採用を続け、大学と学生もまたそれを当然のことと考えていた。

7.2.4 就職協定

 戦後においては、よく知られているように、就職協定が存在した。この就職協定は1928年の紳士協定とは異なって、卒業後の採用選考を取り決めたものではなかった。卒業前に採用選考をおこなうことを前提に、その日程を取り決める紳士協定であった(以下、とくに断らない限り、就職協定の歴史については平野[1991])。
 1952年6月、文部労働両省の事務次官名で、都道府県知事、国公私立大学長、民間団体代表に通達が出された。採用試験の時期が早くなる傾向にあり、「教育計画に支障を来し、学生の向学心を阻害する」から、採用選考は1月以降に実施せよ、との内容であった。しかし翌年春に、旧制大学の最後の卒業生と新制大学の最初の卒業生が同時に就職市場に登場することになっていた。会社側は、新制大学卒業生よりも旧制大学卒業生の方が優秀だと考えており、彼らを早期に確保したいと採用活動を早めていた。そのためこの年、採用試験は10月に集中し、通達は無視された。というよりも、当時は採用選考は10月頃におこなわれていたにもかかわらず、文部労働両省がその現実を考慮しない通達を出した、というべきであろう。そこで文部省は1953年6月、大学や日経連を集めて学生就職懇談会を開き、「採用試験は10月中旬から1ヵ月くらい」とすることを決めた。これが就職協定のはじまりである。
 これ以後、1997年1月の就職協定廃止にいたるまで、就職協定は破られるために存在するかのような観を呈した。抜け駆けで採用を決める会社が存在する以上、まじめに就職協定を守っていれば会社はいい学生を採用できなくなり、学生はいい会社に就職できなくなる。就職協定については、正直者がバカを見る協定だ、と言われ続けた。
 高度成長の中で会社の採用意欲は強く、1961年には10月の試験開始という就職協定にもかかわらず、大会社は7月末には採用活動をほぼ完了した。『朝日新聞』1961年6月13日の「天声人語」は、「人間青田買い」を嘆き、「”大学卒”という資格と実績を重んずるのなら、実質的に”卒業”がみのるまで待つ気持ちをほしい」と論じた。「青田買い」という言葉がマスコミに登場したのは、おそらくこの記事が最初ではないかと思われる。「実質的に”卒業”がみのるまで待つ」ことが不可能に近いことは、1928年協定の経緯によって実証済みであったが、高度成長期にはもはや、1928年協定の経緯などは忘れ去られていたのであろう。
 日経連は62年4月、「守られない協定を維持することは、業界の良心が許さない」とするいわゆる「野放し宣言」をだして、就職協定から離脱した。就職協定は大学側だけの申し合わせになった。66年には大学3年の2、3月には採用が決まるという事態にまでなり、「早苗買い」さらに「種もみ買い」といわれるまでになった。あまりのひどさに、71年、日経連も就職協定に復帰した。 しかしその後も就職協定は有名無実にとどまり、81年、「協定破りの責任は企業、大学双方にある行政が監視を強化すればするだけ、協定と現実のギャップは拡大する」として労働省が中央雇用対策審議会協定遵守委員会から脱会した。その後は労働省抜きで、文部省、大学団体、経済団体の就職協定となったが、やはり就職協定は守られなかった。

7.2.5 定期採用の論理

 卒業後が確定する前に採用を決定する慣行は、第一次大戦中にはじまり、それ以後、1928年協定が有効であった1929年3月卒業生を除いて、景気動向の如何にかかわらず一貫しておこなわれてきた。こうした慣行が学生の勉学意欲に悪影響を与えることは、早くから広く認識されていた。学生が最終年度の勉学を怠ることは、採用する会社にとっても好ましくないはずである。それにもかかわらずこの採用慣行が今日に至るも継続しているのは、ひとたび卒業前の採用決定という慣行が成立してしまうと、会社はいい学生を採用するために、学生はいい会社に就職するために、この慣行を中止することができないからである。有力な銀行会社による1928年協定が早々に形骸化したがそれを如実に示している。
 しかし、卒業前の採用決定という慣行が継続している決定的な理由は、じつは会社は最終年度に学生の勉学意欲が落ちることを気にしていないことにある。それは、昔からそうであった。1920年代後半、多くの有力な会社は、採用の条件として学業成績が上位三分の一以内であることをあげていた。当時は完全な買い手市場であったからこのような条件をつけていた。しかし会社の本心として、学業成績を最重要視したわけではなかった。安田財閥の持ち株会社である安田保善社は、どのような学生を採用したいのか、公にしていた。
「当社が求めてゐる人
(1)私心を挿まず、明るみのある人
(2)趣味豊かにして健康である人
(3)自己の良心にも、且つ仕事にも責任を感ずる人
(4)あらゆる事物に誠意を尽し、仕事に興味と熱とを持ち得る人
(5)鞏固なる意志を有し如何なる誘惑にも負けぬ人
(6)事の軽重を過らず、事件の落着点を機微の間にも明察し得る人
(7)極端に走らず、心にバランスのとれてゐる人
(8)自己を客観する余裕を有し相手の心事を敏速に洞察し得る人
(9)意見あらば、躊躇することなく進言し得る真摯味を有する人
(10)言動挙動の卑しからざる人
 即ち、右の諸点を、なるべく多く具備してゐる人を当社は最も歓迎してゐる」(壽木[1929]84)
 要するに、会社は「人物」を採用したいのであり、最終学年の学業成績などささいなことであった。会社のこうした考えは今日も同じであり、そのことは、採用にさいして学業成績やペーパーテストよりも面接が重視され、ペーパーテストでもSPI適性検査のようなものが重視されることに表れている。

7.2.6 ブルーカラーの定期採用

 下級ホワイトカラーになる中等教育(実業学校)卒業生(男性)にたいする定期採用制度も、日立製作所の事例(菅山[1987])からみると、1920年代に確立している。高等教育卒の男性とほぼ同じ時期に、定期採用慣行が定着したといえる。
 しかし、戦前においては職工とか工員と呼ばれていたブルーカラーは、王子製紙にみられたように「必要な時に必要な人員を補充していくというやり方」(田中[1984]33)で採用されていた。
 ブルーカラーの定期採用は、戦後になっても、養成工を除いてはおこなわれなかった。そのことを実証する事例調査がある。千葉県臨海地区に進出した大会社9社は、主として社内の配置転換によって従業員を確保する一方、1959年から63年に1,343名を新規に採用した。この採用についての分析によれば、「職員については、大学・高校を卒業者を卒業時に採用する。「中幹工員」については、中卒者を卒業時に養成工として採用するか、(高校の−−引用者)工業課程卒業者をこれも卒業時に採用する。一般工員については、時期・学歴を選ばずに採用する」(氏原/高梨[1971]409)。この文章では男女別の言及がないが、同じ頁に掲載されている表によれば、中卒男性については新規採用88名、中途採用818名、中卒女性については新規採用13名、中途採用44名であり、男性についても女性についても、以上の文章が妥当している。1960年前後になっても、養成工の採用は別として、ブルーカラーの定期採用はなかった。
 大会社においてブルーカラーの定期採用が一般的になったのは、大会社が高卒者をブルーカラーとして大量に採用しはじめた1960年代後半以後のことである。1960年代に高校進学率が飛躍的に高まった。そのことは同時に、中卒で仕事を探す者が激減することを意味した。1960年3月に中学を卒業した者のうち就職者と無業者はあわせて73.5万人であったが、1970年には29.6万人へと激減した。若年の中卒者は数が急速に減ったのである。高度成長を背景として臨時工の労働市場もタイトになっていた以上、大会社は新規高卒者を採用する以外に道はなかった。しかしもともと大会社に採用された新規高卒者は大部分がホワイトカラーになっており、定期採用であった。同じ学歴のものを雇う以上、ブルーカラーとしての採用であっても、定期採用をする必要があった(中卒男性から高卒男性への採用の切り替えについては菅山[2000]参照)。

<引用文献>

伊藤彰浩[1999]『戦間期日本の高等教育』玉川大学出版部
氏原正治郎/高梨昌[1971]『日本労働市場分析』上,下,東京大学出版会
壽木孝哉[1929]『就職戦術』先進社
菅山真次[1987]「1920年代重電機経営の下級職員層――日立製作所の事例分析――」『社会経済史学』53巻5号
菅山真次[2000]「中卒者から高卒者へ」苅谷剛彦/菅山真次/石田浩編[2000]『学校・職安と労働市場――戦後新規学卒市場の制度化過程』東京大学出版会
竹内洋[1995]『日本のメリトクラシー――構造と心性――』東京大学出版会
田中慎一郎[1984]『戦前労務管理の実態――制度と理念――』日本労働協会
田中博秀[1980]『現代雇用論』日本労働協会
東京瓦斯[1972]『東京瓦斯人の記録』東京瓦斯
東京大学百年史編集委員会[1985]『東京大学百年史 通史2』東京大学出版会
半澤成二[1929]『就職戦線をめがけて』金星堂
平野秋一郎[1991]「就職協定の歴史と今日の採用活動状況」『季刊労働法』159号
若林幸男[1999]「三井物産における人事課の創設と新卒定期入社制度の定着過程」『経営史学』33巻4号






(2005年4月25日)

 中西洋『日本近代化の基礎過程――長崎造船所とその労資関係 1855-1900年――』上、中、下、東京大学出版会 の私の書評が『社会経済史学』70巻5号,2005年1月、に活字となった。このHPに公開しようと思ったところ、『社会経済史学』の編集委員会から、活字になってから2年間はホームページ上での公開は認めないと言われた。
 私が中西さんの本の書評担当者として適当と思っているわけではない。昨年秋に編集委員会から私に依頼があったとき、引き受けるべきかどうか、少し迷った。私は19世紀後半の日本について本格的な勉強をしたことがない。それにもともと、私は書評を書くことが好きではない。それにもかかわらず引き受けた最大の理由は、この本は書評しにくい本なので、もし私が断ると、書評がまったく出なくなってしまうのではないか、と考えたからである。この本はもちろん、書評に値するし、書評されなければならない。それが一本の書評もでなかったということになれば、研究界の見識が問われかねない、と思った。
 その他にも付随的な理由がある。一つは、中西さんは、私が労働研究を始めたころ、もっとも意識していた研究者の一人である。授業に出席することの嫌いな私は、中西さんの授業にも一度も出なかった。しかし中西さんの書いたものからは十分に学んだつもりである。中西さんはその後、「友愛主義宣言」系列の仕事を中心にしたため、私の研究関心からは相当の距離ができてしまった。その中西さんが再び長崎造船所の実証研究に戻ってきた。私なりに、中西さんの実証研究をどう見ているのか、簡単ではあれ、まとめておきたいと思った。また、中西さんの本は、私のように、19世紀後半の専門家ではないが歴史研究に関心を持っている労働研究者をも読者層として想定している。そういう読者の一人として感想を書くことも許されるであろうと思った。さらに、『社会経済史学』に恩義も感じていた。これまで『社会経済史学』は、私が出版したほとんどの本について書評に取りあげてくれていた。『知的熟練論批判』も取り上げてくれた。その『社会経済史学』からの依頼であるので、引き受けなければならないという気持になった。
 ついでに言っておけば、中西さんの本にたいする私の書評が掲載された『社会経済史学』の号に、偶然にも、野村正實『日本の労働研究』にたいする西成田豊氏の書評が掲載されていた。私のこの本は、中西さんの本とはまったく違った意味であるが、やはり書評がきわめて出にくい本であるため、『社会経済史学』編集委員会と西成田氏に心から感謝したい。
 中西さんの上、中、下3巻からなるこの大著は、上と中がつづけて出版されたあと、20年の後に下巻が出版された。当然のことながら、上中巻と下巻との間には叙述スタイルの大きな違いがある。上中巻は、中西さんが史料をねじ伏せている感じであるが、下巻はできるだけ整理して史料を提示するスタイルになっている。この詳細な史料整理は、大変ありがたいものである。実際、私が今執筆している論文にも役立っている。
 それにしても、実証研究とは何なのか、考えざるを得なかった。資料をして語らしめ、しかもそこに著者の分析力が自ずからあらわれる、という理想の境地に到達できる人は、きわめてまれな例外である。私のような凡人には、資料が前面に出れば分析力は背景に退き、分析を前面に押し出せば史料が細切れになる。
 そんな感慨を持っている時、栗田さんの回顧録を読んだ。栗田健「研究回顧 「日常的な労働組合」の研究(上)」『大原社会問題研究所雑誌』No.557、2005年4月号、http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/557/557-10.pdf で公開。栗田さんは次のように書いている。
 「研究成果が他の人々との共有財産として残るべきであるとすれば,事実を忠実にフォローしてデータを残すことは大切な仕事であり,それがどの程度まで達成されたかによって研究に対する評価が測られるとしても無理ではない。つまり研究者は専門家であることを求められている。資料集のような文献が最良であるとは言いたくないし,そのような仕事にはかなり強い拒絶反応を覚えてきたが,後世に残る研究業績は,他者が研究資料として利用できる度合いの高いものが大部分である。研究者の考え方は,その人,その時代が過ぎ去ってしまえば,古典として残る例外的なもの以外は全部消え去ってしまう。生き方や考え方を研究成果とすることは,その研究者が実践家であり,研究成果をもとに社会的活動を展開する場合に許されることであって,傍観者的な研究者には許されていないのではないか。そうだとすれば私のイギリス研究は,日本社会改革の運動に参加する予定もないままに,実践家もどきに振る舞った,いわば評論家的な中途半端なものに終わったと総括すべきかもしれない。とはいえ,研究のねらいをどこに置くかということは,いわゆる問題意識に富む若い研究者には,いつの時代でも難しい選択である。」
 栗田さんのこの文章は、私の胸にしみた。若い研究者は、自分が抱えている当面の研究で精一杯であり、この文章の持つニュアンスを感じ取ることができないかもしれない。しかし馬齢を重ねてこの年になってしまった今の私は、この文章の持つ意味と、さらには栗田さんがこの文章を書いた気持ちが、痛いようにわかる。なぜならば、この文章は、私も書こうと思っていた文章だからである。


(2005年3月19日)

 もしかしたら、と思って確かめたところ、やはりそうであった。30年前の1975年3月に私は最初の活字論文を発表した。何をもって研究者というのかは議論があるであろう。しかし社会科学の場合、活字論文を発表することが研究者としての第一歩である、といってよいだろう。第一歩を踏みだしてちょうど30年たったことになる。
 しかし30年間で研究者として私が何をしたのか自問するとき、やはり寂しさを禁じ得ない。氏原さんは次のように書いた。
「所詮、私は、労働運動にとっては、傍観者であり、調査屋であったのかもしれない。時に、調査屋であることに、ひどい嫌悪の気持をもち、劣等感をもたないでもなかった。とくに、暮夜独りめざめて、何人の人がこの報告を読み、理解してくれるであろうか、想いここに至ると、いいしれぬ孤独感におそわれるのであった。時に、実践家や教育家を夢みないでもなく、また、理論や思想を論ずる誘惑にかられないわけでもなかった。だが、調査屋は、身辺多事であって、こう考えることも一片の夢想にひとしかった。」(氏原正治郎『日本労働問題研究』あとがき)
 多くの研究者は、あるいはほとんどの研究者は、氏原さんのこの文章に感じるところがあるのではないか。もちろん私もその一人である。しかし氏原さんのこの文章には、続きがある。
「だが、私は、こうして日本の労働者を書きつづけてきたことを、今日、悔いてはいない。これほどにも労働者を書きつづけたものは、それほどにもいないと、ひそかに自負するところがあるからである。」
 氏原さんが「ひそかに自負」したのは、46歳のときである。今の私はそれよりも11歳年齢を重ねており、しかも「ひそかに自負」するものもない。慰めにもならない慰めは、私は結局、研究者として適格であったかどうかは疑問であるが、研究者以外の職には適していないのではないか、という思いである。
 30年間に私が何をなしたのか、という問いに、「智慧の哀しみ」という言葉を思い出している。この言葉は、学生時代に友人が使った言葉である。彼がこの言葉によって何を意味したのか、私は確認しなかった。私なりに即座に理解できたからであった。もしわれわれがもっと愚かであれば、われわれは問題の存在に気づくこともなく、幸せな生活を送れたであろう。もしわれわれがもっと賢ければ、問題の存在に気づき、その解決方法も見いだしていたであろう。しかし不幸にしてわれわれは、それほど愚かでもなく、それほど賢くもなく、ただ問題の前に立ちすくむ。
 研究者としての30年間は、「智慧の哀しみ」を確認しただけであったような気がする。ただ、これも慰めにならない慰めであるが、「智慧」によって見える範囲は、学生時代よりも今の方がずっと広くなった。それはまた、「哀しみ」を広げただけではあるが。



(2004年12月4日)

 遠藤公嗣「賃金形態論の途絶−小池和男「賃金の上がり方」論−」『大原社会問題研究所雑誌』2004年12月号を読んだ。1990年代に成果主義賃金論が登場し、賃金をどのように決めるのかという賃金形態論が復活した。しかし歴史を振りかえれば、1930年代から60年代半ばまで賃金形態論はさかんに論じられていた。その時期にどのようなことが論じられたのか、そしてなぜ賃金形態論は途絶したのかをきちんと検討しておかないと、90年代以降における賃金形態論が袋小路に陥る危険がある。こうした問題意識から出発して遠藤氏は、大意、次のように論じる。もともとは賃金の決め方=賃金形態論が重要だとされていたにもかかわらず、小池和男氏の賃金の上がり方を重視する主張が支配的になり、賃金形態論が消えてしまった。しかし、上がり方を重視する小池説は、なんら信頼できる実証的根拠を持たず、しかも上がり方を重視する論拠がその場その場でくるくると変わっていた。しかし多くの研究者は小池説のこうした根拠なき主張を無批判に受け入れていった。そのような中にあって、賃金形態論の大切さと小池説の非実証性、矛盾を批判し続けたのは舟橋尚道氏のみであった。賃金の上がり方重視という悪しき視点が確立したため、90年代以降の賃金形態論の復活も欠陥をもっている。
 この遠藤論文は、賃金形態論についての基本文献となるだろう。『大原社会問題研究所雑誌』はネットで全文を見ることができるため、遠藤論文については、http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/553/index.htmlで読んで欲しい。
 遠藤論文を読んで、私は三つほどの感想を持った。
 一つは、舟橋尚道氏の研究についてである。2003年に出版した私の『日本の労働研究−−その負の遺産−−』ミネルヴァ書房も、舟橋氏の研究を高く再評価するものであった。今回の遠藤論文も、舟橋再評価を促すものである。問題は、これまでなぜ舟橋氏が注目されてこなかったのかにある。その理由はおそらく、1960年代における段階論的発想にある。50年代には日本特殊性論が支配的であった。60年代に入ると一方では宇野理論による段階論的発想が、他方では近代化論ないし産業社会論による収斂説によって、日本特殊性論が否定的に評価されるようになった。舟橋氏の見解は日本の特殊性を強調しており、段階論や収斂論になじみはじめた研究者から「時代遅れの通説」と受け取られた。70年代は私の大学院生時代であるが、私の周囲で舟橋氏の主張に注目している人は誰もいなかった。私自身もそうであった。今日の日本の通説である日本的内部労働市場論を隅谷さんが最初に発表した時(隅谷三喜男[1974]「日本的労使関係の再検討――年功制の論理をめぐって――」上下『日本労働協会雑誌』8月号、9月号)、私は、その時までに日本の労働問題研究で常識となっていたことを、隅谷さんはたんに外国語文献を持ち出して「内部労働市場」という目新しい言葉づかいで説明しただけだ、と考えた。隅谷論文のすぐ後に出た舟橋さんの隅谷論文批判(舟橋尚道[1975]「内部労働市場と年功制論――隅谷三喜男教授の見解をめぐって――」『日本労働協会雑誌』3月号)は、一応読んだものの、何の印象も私に残さなかった。私のような受け取り方は、おそらく私の世代に共通していたはずである。日本の独自性をどのように見るのかという問題はあったものの、それはあくまでも先進国の共通性を前提としたものであった。
 舟橋さんも、自説が時代遅れの通説とみなされてきたことを自覚していたと思われる。晩年に自らの研究生活を語った最後に、次のような発言をしている。「通説は俗論とみられる場合も多いが、かえって通説の方が事実を反映している場合も少なくないのである」(舟橋尚道[1996b]「賃金論研究と私(下)」『大原社会問題研究所雑誌』10月号)。この発言に私は、自説を「俗論」と見なされてきた口惜しさと、なんと言われようと自分こそが正しいのだという舟橋さんの自負を感じる。舟橋さんは1998年に享年73歳で逝去された。存命中に私の本や遠藤論文が公刊されていたならば、と思わずにはいられない。
 舟橋説を顧みてあらためて感じるのは、大理論のドグマ性である。大理論の必要性は私も否定しないが、それに無反省に追随するとき、研究者としてもっとも大切な態度である事実の尊重が失われる。大理論がプロクルステスのベッドとなる危険性につねに警戒しなければならない。
 第二に、遠藤論文は賃金形態論がなぜ途絶したのかを論じている。しかし賃金論について途絶したのは賃金形態論だけではない。賃金体系論もまた途絶している。
 賃金体系という言葉は相当あいまいに使われていた。労働組合の活動家の間では、賃金形態と賃金体系は区別されていなかった。研究者の間でも、賃金体系という言葉の理解において、一致があったとはいえない。その点を詮索している余裕はないので、とりあえずは、基本給の決め方が賃金形態論であり、基本給とそれ以外の各種の手当を含めた賃金の要素を論じるのが賃金体系論であると大雑把に理解しておこう。いうまでもなく、賃金総額に占める基本給の比率が小さければ小さいほど賃金体系を論じる必要性が大きくなる。戦前には賃金体系という言葉がなかったとされている。戦後、電産型賃金体系の登場とともに、賃金体系論が賃金論の重要な分野となった。なぜ賃金体系論も途絶したのか、論じる必要がある。私は、賃金体系を拡大して、賞与や退職金をも含めて日本の賃金の特質を明らかにすべきだと考えている。
 第三に、今日における賃金論の課題は何か、という点について、何がしかの感想を持った。しかしこの点を論じようとすると相当の手間がかかるため、また別の機会におこないたい。
 日本労働研究史の見直しは確実に進展している。遠藤論文を読んで、私はその感を強くした。労働研究者一人ひとりが、研究史から何をを引き継ぎ、何を捨てるべきか、厳しく問われている。


(2004年6月19日)

奥村宏『判断力』岩波新書、に次のような文章があった。

「日本の経済学者が論争しなくなったと言ったが、それに対して近代経済学者たちはすぐに反論してくるに違いない。現にいま、インフレ・ターゲット論と財政投資有効論とをめぐって激しく対立しているではないか、と。
 バブル崩壊後の長期不況に対して、この不況から脱するには日本銀行がインフレ目標を決めて資金を供給していくべきだというインフレ・ターゲット論と、それに対して財政投資を拡大していくべきだという議論が対立している。理論的には前者はフリードマン、後者はケインズなどの輸入理論に立脚しているのだが、なによりこれは政府や日銀の政策をめぐっての議論であり、日本経済の構造分析の上に立った主張ではない。
 それは総理大臣の諮問会議か政府の審議会の席上で行なわれている議論の延長であって、いうなれば「御用学者」たちの間でのやりとりでしかない。このような「御用学者」たちの議論を「経済論戦」などといってもてはやすのは見当はずれと言うしかない。
 論争といえば、東洋経済新報社が『論争』という名の雑誌を出していたことがある。日本の経済学者が論争しなくなっていることを憂慮して、あえて挑発する意味でこの雑誌を創刊したものと考えられるが、残念ながら掲載される経済学者たちの論文はいずれも「論争」という名に値いするものではなかった。そのせいか数年でこの雑誌は廃刊された。
 そういうなかで、久しぶりに論争らしい議論が出てきた。
 東北大学教授である野村正實氏が二〇〇一年に『知的熟練論批判−小池和男における理論と実証』(ミネルヴァ書房)を出して、小池和男東海学園大学教授の知的熟棟論を批判し、さらに二〇〇三年には『日本の労働研究−その負の遺産』(ミネルヴァ書房)で、隅谷三喜男氏(元東京大学教授)と小池和男氏を批判した。
 小池和男氏は『職場の労働組合と参加』(東洋経済新報社)や『日本の熟練』(有斐閣)、『仕事の経済学』(東洋経済新報社)などの著作で知られているが、アメリカと日本の労働現場の実態調査に基づいて独自の理論を打ち立てていた。日本の会社は労働者に熟練を身につけさせるインセンティブとして熟練に応じた賃金を支払っているとし、その根拠として会社が熟練の幅と深さを正確に測定するため仕事表を作成していると小池氏は言う。しかし、この仕事表は現実には存在しない、小池氏による創作だと、野村氏は批判した。
 さらに小池氏の主張が日本で高く評価された背景には隅谷氏の「内部労働市場論」があるが、この隅谷氏の内部労働市場論はデリンジャー、ピオリの理論を誤って引用したものであると野村氏は言う。
 日本の企業では内部労働市場が形成され、年功賃金になっているが、これは独占資本主義の段階になればどこの国にでも行なわれていることであり、終身雇用、年功序列賃金は日本に特殊的なものではないというのが隅谷氏の議論である。それが踏み台になって小池氏の知的熟練論が作られており、隅谷氏の内部労働市場論にはかつて東大などで流行したマルクス経済学の宇野理論の影響が大きいとも言う。
 『日本の労働研究』では、このように隅谷三喜男、小池和男両氏の見解をきびしく批判しているが、それ以外にも幾人かの労働経済学者を取り上げて批判している。これは日本の労働研究に対する批判として注目されるが、これに対して隅谷三喜男氏はこの本が出版される直前に亡くなっており、小池和男氏はまだ十分に批判に答えていない。そのためこれはまだ「論争」にはなっていない。しかし同じ労働研究に携っている学者に対して真正面から批判したものとして評価できる。
 この野村氏の批判を受けとめて、批判された小池氏をはじめ労働経済学者がこれに対する回答をし、さらに反批判をしていくことによって、議論が深化していくことを期待したい。」(奥村宏『判断力』岩波新書、180-83)

奥村さんは、あらためて言うまでもなく、法人資本主義論を展開した研究者である。1980年代は、「日本は資本主義ではない」とか、「人本主義企業」などといういかがわしい議論が横行した時代であった。私は労働研究を含めて、社会科学が軽佻浮薄の方向にいった決定的な時期は1980年代であると思っている。そうした時代において、奥村さんの法人資本主義論はリアルな現実認識にもとづく卓抜な理論であると私は思っていた。しっかりとした現状認識、それを踏まえた理論化、そして誤った議論に対する論争。研究者はこうでなくてはならない、と私は思った。その奥村さんからこのように評価されたことについて、私は心からうれしく思っている。
 小池和男氏の知的熟練論や隅谷三喜男氏の内部労働市場論に対する私の批判について、公にコメントする人はほとんどいない。これまで知的熟練論や隅谷内部労働市場論に依拠して論文を執筆してるいた人たちは、どのような方向に行くのであろうか。考えられるのは次のようなケースであろう。
 1 すでに知的熟練論や内部労働市場論にもとづいて自分の考えを発表してしまった。今さら軌道修正などできない。野村の批判はなかったことにしよう。これまで通り、知的熟練論や内部労働市場論に依拠して論文を執筆していこう。
 2 知的熟練論や内部労働市場論が野村が批判するほど誤っているかどうか確信が持てないが、無批判に依拠できるようなものでないことはたしかであろう。君子は危うきに近寄らず、ということで、知的熟練論や内部労働市場論を明示的に引用することはやめよう。しかし他に依拠できそうな理論が見当たらないため、実質的には知的熟練論や内部労働市場論でいこう。
 3 知的熟練論や内部労働市場論は誤っていた。通説や有力な見解を無批判に受け入れると、このようなことが起きて、自己批判を迫られる。これからは自分の頭で考えて、批判的摂取をおこなわなければならない。
 私としてはもちろん、第3のケースのように行動してくれることを望んでいるが、このような行動をとる人は少ないだろう。そうすると第一のケースのように実質的にも形式的にも、あるいは第二のケースのように実質的に知的熟練論や隅谷内部労働市場論が存続していくことになるだろう。
 ただ私は全面的に悲観的になっているわけではない。若い人たちは知的熟練論や隅谷内部労働市場論にまだそれほど投資をしていないので、サンク・コストがゼロまたはごく小さい。そういう人たちや、これまでもすでに知的熟練論に批判的であった人たちが、ますますが声を上げるであろうと思えるからである。
 ただ、知的熟練論を信じている人たちには気の毒であるが、当の小池和男氏は、私の批判を受け入れて、といっても例のごとく私の名前にまったく言及することなく、知的熟練論を捨てた。疑う者は、小池和男「競争力を高める技能−金型仕上組立職場を例に−」法政大学『経営志林』40巻4号(2004年1月)を見よ。もはや「変化と異常への対応」能力は問題にされていない。当然のことながら、知的熟練という言葉も登場しない。君子は豹変し、まじめなエピゴーネンは取り残される、というよくある構図である。




(2004年3月14日)

 昨年、中西洋『日本近代化の基礎過程』下巻が公刊された。26,000円という値段の故か、本屋の店頭にはほとんど並ばなかったと思われる。しかし、本格的な研究書として、『日本近代化の基礎過程』上、中、下巻は多くの人に読まれるべきである。
 昨年10月、下巻が私の手元に届いたとき、私は、折りを見て感想を述べたいとこのホームページに記した。しかし、下巻を読んで、あらためて、感想を記すことは大変な作業である、と思わざるをえなかった。私は本書の対象となっている19世紀後半の日本について研究をおこなったことがない。まして長崎造船所という一経営体について具体的には何も知らない。まったくの素人がこの本格的モノグラフを論評することは、無謀である。そのことを十分に承知したうえで、なお私は、若干の感想をここに記そうとしている。本書に対する本格的な書評は専門雑誌に掲載されるであろう。インターネットという媒体は、そうした本格的な書評に対して、素人の素朴な感想を記すのに適しているのではないかと考えたからである。
 上巻は1982年、中巻は1983年に出版されている。それから20年たって下巻が公刊された。20年という時の経過は、当然、研究者の問題関心やものの見方を変化させる。中西氏といえどもその例外ではない。
 上中では組織の生成について焦点が当てられている。それに対して下巻では、経営者のリーダーシップに強い関心が寄せられている。経営体の生成については、組織をつくっていくトップのリーダーシップが重要な役割を果たすことは間違いない。その意味で、下巻における中西氏の方法は正当である。しかし、上中と下との間における分析方法の違いは、氏の全体的主張を不鮮明にしている。上中においては、新しい組織が生成されるさいの客観的条件ないし制約条件が詳細に分析されている。もしこの方法が下巻にも一貫されていたならば、封建制から資本制への移行という古くからの問題に対して、鮮明な像を得ることができたであろう。またもし、下巻の方法が一貫していたならば、「過熟封建制」的リーダーと資本制的リーダーとの思考、行動様式の違いが明らかになあったであろう。しかし上中と下との方法的な違いのために、そのいずれも鮮明になったとは言いがたい。その結果、結局、資本制的組織とは何であるのか、中西氏の主張を私はよく理解できなかった。
 下巻には100ページを超える「近代日本の<人・企業・国家>」という「補章」が収録されている。この「補章」は、現在の中西氏の主たる問題関心をストレートに打ち出したものであろう。「補章」は、上巻の「はじめに <近代日本>の社会科学」での主張と大きく違っている。おそらく次のように考えてよいであろう。長崎造船所を分析する氏の出発点は、上巻の「はじめに <近代日本>の社会科学」であった。下巻を分析するときの氏の問題関心は下巻「補章」にあった。しかし、「補章」のような問題関心からは個別経営の歴史分析をおこなうことはできない。個別経営についてのモノグラフという本書の基本性格と、「補章」の問題意識とのいわば妥協形態として下巻の方法がとられたのであろう。
 私は結局、『日本近代化の基礎過程』は、中西氏の個々の鋭い論点を案内役として、詳細なデータと資料を読者が自ら読み解いていくものではないかと考えている。その意味において、本書は、読者の力量を試すものでもある。私も折りを見て、本書をもとに、19世紀後半の日本企業を再構成してみたい。




(2004年2月6日)

 労働組合の推定組織率がついに20%を切った。もっとも、日本の推定組織率は実際よりも低めに出ているから、実際には20%以上であると思われる(この点については、二村一夫氏の論文を参照せよ http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/uniondensity.html)。しかし問題は20%を切ったかどうかにあるのではなく、組織率が継続的に低下し、組合員数も減少しているということにある。そして不正確ながらも推定組織率が20%を切ったということが、あらためて労働組合のプレゼンスが低下していることをあざやかに示した。
 労働組合員数の減少について、とりわけ産別やナショナルセンターのレベルで危機感が強い。組合員数の減少が財政の縮小に直結しており、組織の見直しを迫られているからである。書記局スタッフの減員、会議開催頻度の縮小、出張旅費の見直しなど、これまでの活動スタイルを維持できなくなっている。
 このような事態を背景としてであろうが、最近、私は労働組合について意見を求められた。1つは連合の機関誌『連合』編集部によるインタビューである。いまひとつは、生活経済政策研究所の機関誌『生活経済政策』2004年4月号への寄稿である。こちらの方はまだ活字になっていないので、『連合』2004年1月号に掲載された私へのインタビューをここに公開しておく。


●組合は「個人の処遇」に取り組む
Q1 「個人」と「組織」の不都合をどういうところで感じる?
 いま、実際には長期雇用システムは広く存在しているのだが、会社と従業員の関係においても、組合と組合員の関係においても、従来の長期雇用・年功賃金を前提とした関係は弱まりつつある。それに代わる新しい人事・処遇システムとして「成果主義」がもてはやされている。そこでは当然集団的な労使関係よりも個別的な労使関係が重視されている。組合という集団的な枠組みはいらないのではないかという見方が「個人」には生じているし、「組合」自身も自分たちの存在意義が低下していると思い込んでいる。
 しかし、個別労使関係が重要になるということは、それを律するルールがより重要になるということであって、組合が必要なくなるということではない。むしろそのルールは組合が会社と交渉してつくっていく以外にないという意味で、組合の役割は重要になっている。ルールがなければ、個々の労働者は会社という巨大な組織の前にぽつんと一人立っている存在だ。
 つまり、組合が必要とされないのではなくて、組合員が必要としている活動ができていないからこそ、組合と組合員の関係が疎遠になっているといえるだろう。
 
●貴重な経験が共有化されない
Q2 この不都合はなぜ起きたのだろう?
 労働組合が「ルールづくり」に力を発揮できない原因をあげる。
 一つは、組合が、もっとも大事な専従役員をきちんと処遇してこなかったことだ。いま、単組の役員のほとんどは、声をかけられて引き受けた人たち。交渉相手の会社側は労務のプロなのに、組合側は「素人集団」のままということになる。しかも、かれらは1期か2期務めたら職場にもどりたいと考えているから、会社のほうに目が向いてしまっている。
 2つめは、企業内組合が過度に企業内に閉じこもり情報を外に出さない、産別も企業秘密という領域には立ち入らないという姿勢できたこと。だから、成功も失敗もふくめて貴重な経験が、労働組合全体として共有化されていない。
 3つめは、単組役員が公式にしろ非公式にしろ会社から事前に情報を得てきたことで、会社から大事にされていると思ってしまったこと。そのために、組合が組合員の要求を出したときに会社が誠実に対応しているかどうかという、労使交渉の基本が置き去りにされている。
 私は日本の職場で、ほんとうに成果主義や個別的労使関係が機能するのかについては疑問に思っている。10年前に成果主義を入れた会社は、むしろ業績が悪化している。しかし、そういう教訓を無視して、日本の企業は「横並び」で成果主義の流れに遅れてはいけないと浮き足立っている。ここで、労働組合がこの問題にどう対応するのか。重要な局面にあるといえるだろう。

●労働組合という立場で説得を
 Q3 労働組合はどう対応すべき?
 まず単組が、これまでの問題点を自覚してどんな組合員サービスができるのかを考えてみるべきだ。とすると、やはりいまいちばん大事なことは、個別的な労使関係が公平に機能するためのルールづくりだろう。
 その第一歩は、企業内内組合が、情報を交換して、産別レベルで失敗例・成功例を共有化していくことだ。そして産別も、そういう情報を積極的に集めて分析し、政策対応をしていく。
 そのときにもっとも大事なのは、労働組合という立場で、きちんとした考えをもつことだ。例えば労働時間について、時間外労働の規制を外してもっと働きたいという「個人」と短縮してほしいという「個人」の間がいたとする。いま、組合は、その間で右往左往してはいないだろうか。そこでもう少し視野を広げて考えれば、長時間労働が日常化すれば、短期的に頑張ることができても、長期的には有能な人材がバタバタ倒れることになるだろう。世界的に労働時間は短縮の方向にある。なぜかといえば、それが合理的だからだ。組合は、組合の立場として、そういうことを会社にも組合員にもきちんと説得しなければならない。

●ベースは「個人レベル」に
Q4 労働組合の未来形は?
 組合活動の進め方も見直す必要があるだろう。これまでのように全体を右向け右で引っ張っていくという形ではなくて、個人が自分の選択権を行使できるようなルールづくりをしていかないと、「個人」と摩擦を起こしてしまう。
 いま、ワークルールにしても社会保障にしても、政治・社会レベルで実現すべき領域が大きくなっている。労働組合と密接な関係を持った議員を国会に送ることはますます重要になっている。しかし、組合が組織内候補を出して活動することに対しては、なぜ個人の選択権を制限するのかという、組合員の反発や無関心が生じている。そして組合の役員は、低い得票率に消耗感を感じている。
 この摩擦を避けるには、やはり組合として政治活動をしていくのではなく、組合とは別組織で個人加盟の後援会組織をつくる必要があるのではないか。結果として、組合員が後援会に入るとしても、判断するベースはあくまでも個人レベルにおくということが重要になると思う。労働組合という組織そのもののあり方としても、いま個人をベースにした地域のコミュニティユニオンが活動を広げている。産別や連合が、そういう組合をもっとサポートしていくことも必要だろう。




(200年12月26日)

 成果主義について,熱にうなされたような成果主義の導入ブームは一段落したと思っていたところ,ソニー,日立,松下電器における成果主義導入の報道によって,再び成果主義ブームが到来している。私は,成果主義について否定的な考えを持っている。それは,成果主義の導入について肯定面と否定面を冷静に判断して成果主義の導入がおこなわれているのではなく,他社がおこなうからわが社も,という安易な横並びで行われているかのように見えるからである。日本企業の主体性のなさは,横並びではいけない,ということを横並びに叫んでいるところに如実に表れている。成果主義の疑わしさは,有名企業の第一号として成果主義を取り入れた富士通を見れば,一目瞭然である。成果主義によって社員が活性化し,それとともに会社が利益を上げていくことができるとするならば,現在,富士通こそ最優良企業として他社から仰ぎ見られる存在でなければならない。しかし富士通の現実がきわめて厳しい状況に置かれていることは周知のことである。それにもかかわらず,なぜ成果主義の導入が次々とおこなわれるのか,この事実自体が研究に値する。
 成果主義に対する私の考え方を示すために,『季刊家計経済研究』2002年春号に発表した私の論文「成果主義と年功賃金」をPDFファイルとしてここに掲載しておく。




(2003年10月9日)

 中西洋『日本近代化の基礎過程−長崎造船所とその労資関係 1855-1903年』東京大学出版会の下巻が公刊された。上巻が1982年,中巻が1983年に出版されでいるので,じつに20年後の完結となる。この下巻は,1,065ページ,価格26,000円と通常の本のボリュームをはるかに超えており,70歳になる中西氏が研究にどのような意欲を持っているか,如実に示すものとなっている。
 私はこれまで何度か中西氏に,『日本近代化の基礎過程』の下巻をなるべく早く出して完結させてほしい,と要望したことがある。もちろん,中西氏が私ごとき者の言を取り上げたとは考えられないが,そのように発言した手前,『日本近代化の基礎過程』について,たとえ素朴な感想ではあれ,何か書かなければいけない,と感じている。
 私は、大学院に進学してから労働研究を始めたということもあり、大学院生のときにはじめて中西氏の論文を読んだ。「頭が切れる」ということはこういうことを言うのか,と思った。私が遺憾に思うことは,これだけの才能を持った研究者が,それに見合うだけの影響力を確保していないことである。今日,中西氏の論文や著作を引用したり,あるいは中西氏の議論を出発点として問題設定をおこなっている研究論文は,ごく限られている。もちろん中西理論への強い信奉者がいることは私も知っている。しかし全体としてみるならば,中西理論の影響力は限定的といわなければならない。このような遺憾な研究状況になっている責任の一半は,不勉強な研究者にあることは間違いない。しかし他の一半の責任は,中西氏が研究戦略を誤ったことにある,と私は思っている。
 研究戦略の誤りは2つあった。一つは,中西氏が,低水準の理論や実証は批判するに値しない,という態度を貫徹したことである。低水準の理論や実証であっても,それらが強い影響力を持っているならば,批判するに値するし,批判しなければならない,ということを中西氏は理解しなかった。中西氏は,自らのこの信念から,小池説をまったく批判しなかった。1980年代から90年代初頭にかけて小池理論があれほど強い影響力を持ったにもかかわらず,中西氏は小池説を無視し続けた。
 もう一つの研究戦略の誤りは,研究を取りまとめる優先順位の誤りである。そしてこの点が,今回出版された『日本近代化の基礎過程』に関係している。
 中西氏は,韓国労働運動史や新左翼労働運動論などについても長い論文を書いているが,単行本としてまとめた研究については,大きく次の3つの分野に区分される。
 (1)研究史批判=中西国家論の提示。これは言うまでもなく,中西洋[1982]『増補 日本における「社会政策」・「労働問題」研究―資本主義国家と労資関係―』東京大学出版会,に集約されている。
 (2)未来社会の原理の提示。資本主義社会の理論的検討から近未来社会の原理を提示しようとする試みは,中西洋[1994]『<自由・平等>と<友愛>――"市民社会";その超克の試みと挫折――』ミネルヴァ書房,中西洋[1998]『<賃金><職業=労働組合><国家>の理論――近・現代の骨格を調べて近未来をスケッチする――』ミネルヴァ書房,中西洋[1998]『近未来を設計する――<正義><友愛>そして<善・美>――』東京大学出版会,でなされている。
 (3)日本労働史分析。今回で完結した『日本近代化の基礎過程』が代表作である。
 じつは中西氏にはこのほかに量的にも質的にも重要な研究テーマがあった。「給料袋の国際比較」と題された一連の長論文である。しかし残念なことに,このシリーズの論文は東京大学経済学部のdiscussion paperであり,だれもが入手・閲覧可能という形になっていない。そのためここではこの一連の論文については触れないことにする。
 中西氏は資質として理論家である。そのため,最初にまとめた仕事が中西洋[1982]『増補 日本における「社会政策」・「労働問題」研究―資本主義国家と労資関係―』であったのは,自然である。この本は,大河内理論をはじめ,日本の主要な労働研究を斬りまくったものである。日本の労働研究史を引き継ぐうえで,この本はいまなお必読文献である。
 中西氏は理論家ではあるが、そのもっともすぐれた美質は、理論を理論として自由に展開していく場合にではなく,実証という制約条件の下で理論的含意を最大限に引き出そうとするときに発揮される。つまり,実証との緊張関係がある時に見事な論文ができあがる。それをを証明するのが,中西洋[1977]「第一次大戦前後の労資関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として――」隅谷三喜男編『日本労使関係史論』東京大学出版会である。『日本近代化の基礎過程』は,この方向での代表作になるはずであった。『日本近代化の基礎過程』は,長崎造船所という一経営体を対象に,近代企業とその労使関係の生成を徹底的に明らかにするはずであった。それまでの労使関係研究が経営体の管理運営という視角を持たなかっただけに,中西氏の視点は画期的なものであった。しかも中西氏は,このような視点にもとづく歴史研究を1968年という早い時点で学位請求論文として提出していた。この学位請求論文は1969年に東京大学『経済学論集』に3回にわたって連載された。『日本近代化の基礎過程』はこの学位請求論文をさらに大幅に拡大するものであった。『日本近代化の基礎過程』の上巻と中巻は1980年代前半に刊行されたが,この1980年代前半という時点においても,中西氏の提起した経営体分析という視点は,労働研究の中で傑出していた。
 しかし中西氏は,中巻を出版した後,執筆を中断してしまった。予定されていた下巻こそ,「三菱長崎造船所」の成立を論じるものであり,本のタイトルである「日本近代化の基礎過程」が明らかにされるはずのものであった。この下巻が出版されない以上,『日本近代化の基礎過程』の書評が出るはずもなく,経営体分析という中西氏の提起した卓抜な視角の有効性もまた,実証されないものであった。中西氏は,中西氏の本来の美質をあざやかに提示する機会を逸してしまった。
 中西氏が中巻で中断してしまった理由は,中西洋[1981]「<友愛主義>宣言――<自由・平等・友愛>の社会科学――」『世界』1981年2月号に求められる。これ以後中西氏は急速に近未来社会の原理となるべき「友愛主義」を論じるようになった。私は中西氏の「友愛主義」をよく理解しているとは決して思っていない。それだから言うのではないが,中西氏は仕事をまとめる優先順位を間違えた,と私は思ったし,いまも思っている。中西氏は1980年代前半に『日本近代化の基礎過程』の下巻を公刊して完結させるべきであった。もし完結させていたならば,『日本近代化の基礎過程』は日本資本主義史研究の基本文献となったことは間違いない。
 東京大学出版会の出版予告によって下巻の出版を知ったとき,出版されたならばすぐに読んで,その感想を書こうと思っていた。しかし下巻の分量が1,000ページを超えており,しかも上巻と中巻が出版されたのが20年も前のことであるため,下巻の感想を書くためには,いま一度,上巻と中巻を読み返す必要もあり,そうすると全部で1,700ページを超える分量を読まなければならない。目下,締め切りの設定された原稿をかかえており,今すぐにすべてを読み通すことは時間的に無理である。『日本近代化の基礎過程』そのものに対する感想は,機会をあらためておこないたい。





(2003年9月11日)

日本型雇用の全体像          
 日本的雇用システムについて激しい論争がおこなわれている。一方では,終身雇用,年功賃金,企業内労働組合は絶対に必要であると主張されている。他方では,それらが日本的経営の諸悪の根元であると指弾されている。終身雇用と流動的労働市場,年功的処遇と成果主義的処遇,集団的労使関係と個別的労使関係のいずれが望ましいのであろうか。価値判断の前提は,いうまでもなく日本的雇用システムについての正確な認識である。日本的雇用システムがどのような歴史的条件の中で形成されたのであろうか。形成された日本的雇用システムは日本企業や日本経済にとってどのような役割を果たしてきたのであろうか。そもそも日本的雇用システムとは何であろうか。私には,擁護論者も改革論者も,日本的雇用システムについて十分な理解を欠いているように見える。
 経済学の他の領域と同じく,この20年間の労働研究は間違った方向で推し進められてきた,という思いを私は禁じえない。今日の社会科学の主流は,皮相に理解した現実を,ゲームの理論のようなリアリティの希薄な理論によって説明する。きちんとした調査による事実発見,借り物ではない自前の理論による分析,戦後日本の社会科学が積み重ねてきた研究蓄積は軽視されている。
 数年前に私が『雇用不安』(岩波新書)を公刊したのは,こうした風潮への私なりの反発であった。また『知的熟練論批判』,『日本の労働研究』(ともにミネルヴァ書房)によって私は,理論に合うように安易に「事実発見」をおこなう傾向を批判した。1950年代,60年代には,日本の現実と緊張関係を保ちながら日本社会,日本経済について独自に考察したすぐれた研究が少なくなかった。しかしその遺産は正当に継受されていない。戦後日本社会科学の遺産を引き継いで日本資本主義を分析したい,という思いが最近ますます私のなかで強まっている。目下,私は労働市場(雇用と賃金)を基軸にして日本型雇用システムの独特性を分析する論文を準備している。






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