偶感



(2007年11月20日)読者層

 ホームページを立ち上げてから、時折、ホームページをもっと頻繁に更新せよ、という叱正を受けることがある。私のホームページを読んでくれている人がいるかと思うと、励みにはなるが、同時に、そう言われても、ある意味では筆無精の私に過度の期待はしないでください、とも言いたくなる。ある意味で筆無精だというのは、論文の執筆という点では、私は平均的な研究者よりは筆まめである。少なくとも、これまでに書いた分量からいえば、そう言っていいだろう。ところが論文以外の文章については、筆無精である。私的な文章を書くことに慣れていない、というべきかもしれない。
 前回の更新は8月24日だったので、もう3カ月経過した。じつは、前回更新したとき、この次は、天野郁夫編[1991]『学歴主義の社会史−−丹波篠山にみる近代教育と生活世界−−』(有信堂)の書評を書こうと思っていた。
 数カ月前に刊行した私の『日本的雇用慣行』は、学歴主義、学校歴主義を一つの柱にしている。本の執筆の過程で、私は天野郁夫氏の数多い著作をほとんどすべて読み通した。それまでにも天野氏の著作は何冊かは読んだことがあったが、まとめて読んだことによって、天野氏の仕事にたいして改めて敬意を覚えた。これまでの労働研究は天野氏のすぐれた仕事を取り込んでこなかった。いわゆる労働問題研究はブルーカラーに関心を寄せていた。天野氏の主たる仕事は高等教育に関係していた。そのために労働問題研究が天野氏の仕事に関心を払わなかったことは事実である。しかしそれだけではない。これまでの労働研究は、労働市場論は学歴、学校の役割を抜きにしては論じることができない、という認識を欠いていた。
 たしかに、苅谷剛彦[1991]『学校・職業・選抜の社会学――高卒就職の日本的メカニズム――』(東京大学出版会)以後、学校と就職の関係について関心が高まり、いくつかの重要な研究も公刊された。しかし、それらは学校と就職との直接的な関係に目を向けており、労働市場全体において学校がどのような機能を果たしているのかという視点は弱い。学校制度を組み込んだ労働市場論が必要である、と私は考えている。
 話を元に戻すと『学歴主義の社会史』の書評を書こうと思ったのは、労働市場論との関係ではない。『学歴主義の社会史』は、興味ある事実発見をおこなっている。しかし発見された事実の解釈について、私は執筆者たちとは相当に異なる見解を持っている。その点について書評を書こうと思った。しかしながらこの数カ月、とあることを調べていて、書評を執筆する時間がとれなかった。書評の執筆にはまだ時間がかかるため、とりあえずこのような雑文をアップロードし、更新の間隔が極端に長くなることを防ごうと思った。次回の更新には、『学歴主義の社会史』の書評を載せたい。
 なお、雑文のついでに記しておくと、今年8月に刊行した『日本的雇用−−全体像構築の試み−−』(ミネルヴァ書房)は、売れ行きが好調なようで、2刷を印刷する準備に入った、との連絡を担当編集者から受けた。『週刊東洋経済』2007年9月29日号の「注目の1冊」コーナーで奥村宏氏が私の本を取り上げて下さったことが1つの理由であることは間違いない。しかし『週刊東洋経済』の主たる読者はサラリーマンであり、5,000円の専門書はサラリーマンが気楽に買って購読するようなものではないであろう。どのような人達が購入してくださっているのであろうか。
 本の「あとがき」に書いたように、草稿段階で兵藤さんからコメントをいただいた。私は、「いったい、この本はどのような読者層を念頭に置いて書かれているのか」と質問された。本は、一般読者にとっても(多分)面白いであろうような記述もあれば、狭い専門家のみの関心を引きそうな部分もある。それを気にかけての質問であった。私は正直に、特定の読者層を想定してはいません、と答えた。読者層を想定することなく、今の段階で私の言いたいことを書いておこう、というのが私の執筆姿勢であった。独り善がりな姿勢と批判されても、甘受しようと思っていた。それにもかかわらず、とりあえずは売れ行きが好調であるとのことなので、どのような読者層にアピールしたのか、私は知りたいと思っている。


(2005年12月4日) 集団就職

 今日の日経の「半歩遅れの読書術」欄に、竹内洋氏が加瀬和俊『集団就職の時代−−高度成長のにない手たち−−』(青木書店、1997年)について語っていた。中学を卒業して東京に就職した女性が竹内氏に写真などを添えて手紙を送ってきた。彼は激励の手紙ひとつ書かなかった。加瀬氏の本の内容に触れながら、その女性を励ますことのできなかった後悔を記している。
 私は加瀬氏の本を、出版直後に読んだ。そして、竹内氏と似たような感想を持った。もちろん私には、手紙をくれる女性などいなかった。そうではなくて、中学を終えるとき、就職していく同級生の気持ちを私はまったく察することができなかった。そのことが、苦い思い出となってよみがえった。就職していく同級生の気持ちが分からなかったのは、もちろん主として私自身の鈍感さによっている。しかしそれがすべてではない。
 私が中学を卒業した1963年当時、地方では多くの中卒者が就職していた。静岡県小笠郡大須賀町で唯一の中学校であった大須賀中学校では、350人ほどの卒業生のうち約半数が中学を出て働いた。中卒で働くということは、ありふれた現象で、とくに感慨をもよおすような事柄ではなかった。当時はそのように考えられていた。卒業者名簿を見ると、就職者の大半は明らかに中小零細企業であると思われる会社に就職している。大企業に就職したのは、紡績会社の労働者となった女性が主力で、35名いる。紡績会社の女性労働者は勤続年数が短かったので、おそらく彼女たちの多くも短い勤続でやめたと思われる。
 中卒者が就職するということは、たしかにありふれた現象であった。しかしそれは、厳しい現実がありふれていたということを意味していた。私は後になるまで、そのことに気づかなかった。
 大須賀中学校では、中学卒業時に、将来の進路がほぼ見通すことができた。卒業時に、半数が就職した。残り半数は高校に進学したが、進学した高校によって、将来さらに大学に進学するかどうかがほぼ決まっていた。大学に進学するであろう者たちは、静岡県立掛川西高校に進学した。それ以外の高校に進学した者たちは、そのほとんどが高校卒業で就職することが予定されていた。掛川西高校進学者は、その意味で、小さな田舎町のささやかなエリートであった。男性18名、女性3名、計21名がそれに該当した。卒業生のわずか6%にすぎない。私は沼津高専という怪しげな新設学校に進学したので、ささやかなエリートコースから外れていた。とはいえ、間違いなく私もささやかなエリートコースに近いと思われていた。
 私は『集団就職の時代』を読んだとき、次のような感想を持った。中学を卒業したとき、私にとっては、そしておそらく高校に進学したほとんどの者にとって、就職していく同級生はある意味では当たり前の選択をしたのであり、とりたてて感慨をもよおすようなものではなかった。しかし、就職していく同級生にとって、高校進学者、とりわけ掛川西高への進学者はどのように見えたのであろうか。彼らは深い感慨を持って就職していったのではないか。
 大須賀町では、集団就職という形をとらなかった。その当時、東海道線袋井駅から大須賀町まで軽便鉄道が走っていた。少なくとも私は、就職者たちが教師に引率されて軽便鉄道で就職先に移る光景を見たことがなかった。個別に就職していったものと思われる。
 その時からすでに四十数年がたった。還暦を間近に控え、中学を出て就職していった同級生がどのような道を歩んできたのか、知りたいと思う気持ちがますます強くなっている。


(2005年9月1日)

 ハイデルベルク滞在中、ドイツの大学も日本の国立大学と同じような悪化の道を進んでいると実感した。
 まず、カネがない。ドイツでは州政府が大学への支出を減らしている。代わりに外部資金を獲得せよ、と州政府は言っている。日本でも国立大学の運営交付金に効率化係数1%が設定され、毎年予算が減る仕組みになった。
 第二に大学のトップが勝手なことをやりはじめた。ハイデルベルク大学では学長が、関係者にまったく相談することなく、突如、経済学部を同じ州にあるマンハイム大学に譲渡する、と発表した。すかさず州の文部大臣が、いいことだ、組織の統廃合によってシナジー効果が生まれるだろう、これを機会として、他の大学でも組織改革をおこなってほしい、という談話をだした。もちろん当の経済学部では教員学生とも激怒した。学生はデモをおこない、教員たちはさまざまな形で絶対反対の意見を表明した。噂では、ハイデルベルクが経済学部を譲渡する見返りに、マンハイムから数学や情報工学関係の講座をもらい受ける密約があるのではないか、その密約は州文部大臣が斡旋したのではないか、といわれた。地元新聞は、この事件を熱心に報道していた。ハイデルベルクは大学町なので、当然といえば当然だが。結局この件は、2010年までは経済学部が存続することで一応の決着がついた。それ以後どうなるのかは不明である。またこんな勝手なことをやった学長は、そのまま居座っている。
 日本ではまだここまでやるような学長は出ていないが、やろうと思えばやれる状況にある。すでに予算の面ではこれまで各学部に分配されていたカネのかなりの部分を学長の手元に集めている。大学の経営と称して、学長とその取り巻きが暴走する可能性は大きい。
 第三に、大学の機能として研究よりも教育、しかも実学に近い教育が要求されるようになっている。ハイデルベルク大学はバーデン・ヴュルテンベルク州にあるが、州政府はボローニャ・プロセスを今年から導入する。ボローニャ・プロセスは、1999年にヨーロッパ29カ国の文部大臣が集まって、ヨーロッパ全体の高等教育を平準化しようとして発表された。それは学部レベルではbachelor、大学院レベルではmasterを養成する、bachelor教育は3年あるいは4年、master教育はbachelor取得後1年ないし2年で終了する。授業内容は、学生が就職したときにすぐに役立つようなものとする。これまでのDiplomは2010年で廃止する。
 このボローニャ・プロセスがいかに大変革であるかは、これまでのDiplom制度を見れば、一目瞭然である。Diplomの称号を得るには、大学入学後8年程度はざらで、もっと長くかかる学生も数多くいる。しかも大学入学者のうちDiplomを取得できるのは、半分以下である。一番ひどいとされているのは哲学関係で、入学者の2割程度しかDiplomを取得できない。取得できない学生はどうなるかというと、途中でいつしか学生をやめてしまうのである。それが、これからは最短で、入学後わずか3年でbachelor、さらにプラス1年でmaster取得になるのであるから、水準が大幅低下するのは火を見るよりも明らかである。さらに内容も、Diplomが学問のための学問という色彩を帯びていたのに対し、就職に役立つ実学に切り替わる。つまりDiplommからbachelor/masterへの転換は、教育体系の全面的な見直しを意味している。この秋からの実施に向けて、教員たちは連日、会議に次ぐ会議で研究時間などまったく持てない状態にある。
 日本ではDiplommからbachelor/masterへの転換のような大きな変動はないが、専門職大学をはじめとして、実学が要請されていることには変わりがない。
 第四に、教員の地位がC3,C4からW3になった。要するに公務員ではなく賃金も下げようということで、新規採用はC3,C4の地位を廃止したのである。さらに、カネがないこともあって、教員ポストを減らしている。一番手軽なのは、定年でやめた教員の後を補充しないままにする。それは結果として、講座やコースを廃止することを意味する。日本でも独立行政法人化にともなって、われわれは国家公務員ではなくなった。これから賃金も退職金も減少することになるだろう。
 ドイツの大学の動きを見て、あらためて、日本の国立大学の先が見えたように思った。これから、大学らしい大学といえるのは見識のある私立大学になるのではないか、という思いが強くなった。もちろん私立大学は千差万別であり、その中で見識を持っている私立大学の数は限られたものであろうが、そうした大学に期待を寄せる以外に、展望が見えないこともたしかである。





(2005年2月26日)

 私の生まれ育った田舎町が、今回の合併の大波に呑み込まれて、消滅することになった。静岡県小笠郡(おがさぐん)大須賀町(おおすかちょう)というのがその田舎町であるが、今年4月に掛川市に吸収合併されて掛川市の一部となる。あなたのお生まれは、と聞かれて、掛川市ですというのはやはり大きな抵抗がある。「昔は大須賀町といっていましたが、今は掛川市の一部になってしまいました」と答えることになるであろう。市町村合併によって、小笠郡も消滅することになっている。
 しかしなぜ掛川市と返事することに抵抗があるのかを考えると、答えは簡単ではない。私が大須賀町に愛着を感じ、強い結びつきを持ってきたのであれば、答えは簡単である。しかし私は長い間、古里に帰らなかったし、連絡もとらなかった。
 大須賀町は、もとは横須賀町(よこすかちょう)であった。私は横須賀町に生まれた。1956年に隣の大渕村(おおぶちむら)と合併して大須賀町となった。横須賀町は、横須賀藩3万5千石の城下町を中心としており、もとの城下町を「町」(まち)、近隣の農村地帯を「在」(ざい)と呼んでいた。横須賀が「町」で、横須賀はさらに細分化されて、河原町、東田町など「町」と名のつくものが12町あった。正式の郵便あて先では、大須賀町横須賀××番地となるが、私の子供のころはもちろん、おそらく今でも、横須賀××番地でおおよその場所がわかる人はいないだろう。西田町(にしたまち、私の生まれた町)だの大工町だの、城下町の昔の名前で住所を確認するのが普通であった。
 江戸時代は小なりといえども一応は大名で、地方のある種の中心ではあったが、近代に入ると陸の孤島ともいわれるようになり、町は停滞した。1956年に大須賀町が誕生した時、人口は1万2千くらいであった。今も1万2千なので、ずっと横ばいの状態であるといえる。産業としては農業と商業、サービス業が主力で、工業はほとんどなかった。私が沼津高専一年生であった1963年、地理の宿題で、古里の産業を調べてこいという課題が出た。私は役場に行って統計をもらったが、工業はほとんどゼロで、あらためて感心した記憶が残っている。その後はいくつかの小さな工場を誘致したので、少しは工業活動もおこなわれるようにはなっているのであるが。
 残念ながら、大須賀町のような町を描いた漫画や小説というものはないのではないか。西岸良平は私と同世代なので、『三丁目の夕日』には懐かしさを感じるものの、彼の描くのは東京なので、大きな違いを感じる。矢口高雄『オーイやまびこ』や『ボクの中学生日記』になると、これはまた本当の山奥で、野に山に遊びに行くことは似ていても、その他の点では私の子供時代とは相当に違っている。山と渓谷社『東海・北陸小さな町小さな旅』(pp.36-39)では、大須賀町は「職人の技と味が生き続ける城下町」で、「高い山がなく海が近いせいか、それとも温暖な気候のためなのか、町の雰囲気がどこか温かく、のんびりとしている」と紹介されている。
 本題に戻ると、ふだんは何もない静かな町が、1年に2日だけ盛り上がる。4月第1土曜日の日曜日におこなわれる三熊野(みくまの)神社の大祭である。法被を着て、「ネリ」を曳いて、酒を飲んで、一年の退屈さをこの二日間で吹き飛ばす。江戸時代から続き静岡県重要無形文化財第1号に指定されているこのお祭りについては、次のサイトで概略がわかる。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~me-gumi/index.html
http://homepage1.nifty.com/suzuki-m/
 このお祭りには、各「町」から「ネリ」と呼ばれる山車がでる。「ネリ」が大好きで1年中「ネリ」のことを考えている人種は、ねりきちがいという意味で「ネリキチ」と呼ばれている。1年中「ネリ」のことを考えている、というと、誇張した言い方だと思われるかもしれないが、事実である。「ネリ」に対する思いがどのようなものであるのかは、戦争中も一度も休まず4月に「ネリ」を曳いていたことからもわかるであろう。もちろんその筋からは祭りの中止が要請され、総代会でも中止を決議したが、「ネリキチ」の若者がそれを無視して「ネリ」を曳き、結局黙認するという形で決着している。1945年4月には、「ネリ」を曳いているときに空襲警報が発令されたので「ネリ」を置き放し、空襲警報解除後に取りにいった、と伝えられている(田中興平『続 遠州横須賀三熊野神社大祭 そこに江戸の祭文化がある』ちなみに、この正続あわせて740ページを超える遠州横須賀三熊野神社大祭史を書いた「ネリキチ」の田中興平は私の同級生である)。もちろん、敗戦翌年4月には「ネリ」はでている。大須賀町の観光パンフレットでは、横須賀には「ネリキチ」が多い、と書かれているが、それは実態とは異なる。横須賀では「ネリキチ」が多いのではなく、全員が「ネリキチ」なのである。あるいは別の表現をすれば、横須賀に生まれた子供で「ネリキチ」ではない子どもは存在しないと考えられていた。
 毎年四月の初めにおこなわれる祭を準備し、太鼓やひょっとこ踊りを練習するために、祭りの何カ月も前からそれぞれの「町」の稽古場に子供が集まる。子供たちはもちろん「ネリキチ」なので、喜々として稽古場に通う。
 ところが不幸にして私は「ネリキチ」ではなかった。もちろんお祭りそのものは楽しいが、一年中「ネリ」のことを考えている「ネリキチ」ではなかった。したがってまた、稽古場に喜々として通ったのではなかった。しかし当然のことながら私を除いて全員が「ネリキチ」なので、私の気持ちなど理解されるはずもなかった。私が稽古場に行くのを渋っていると、同い年の子供たちが心配して家に、「マサミ、体が悪いだか?」と様子を見に来て、私の体が悪くないことを確認すると、「そんじゃー、稽古場へ行かざー」と一緒に稽古場に行く羽目になる(私は中学を卒業するまでは完璧な横須賀弁を話していたが、それ以後は話す機会がなくなってしまったため、ここに記した横須賀弁が正確であるかどうか、自信がない)。
 私にとってはこうしたことが、共同体規制と思われた。後に学生時代に大塚史学や丸山真男に惹かれたのは、こうした個人的体験があった。学生時代は単純に、共同体は解体すべきであると思っていた。しかしやがて私は、私自身は共同体の中で生活できないが、こうした共同体が守っているものと、共同体の中に生活していると人々が好きであることに気づいた。私は共同体に対してアンビバレントな感情を持っている。
 つまり小笠郡大須賀町というのは、私にとって、共同体に対する、ひいては共同体的なものを引きずってきた日本に対する私のアンビバレントな感情を表している。
 さらにいえば、日本人の生活構造は、東京や大阪などの大都市、地方都市、そして郡部の三層構造になっていた。今回の各地における自治体の合併は、かなりの数の「郡」を消滅させるだろう。しかし郡部の3つか4つの町や村が合併して「市」になっても、それで都市の機能が生まれるわけではない。また、町が市に吸収されても、その町が都市になるわけではない。たんに生活構造の違いをおおい隠す名称変更になるだけである。

(2004年11月1日)

 高専について書くのは前回で終わりにしようと思っていた。ところが先日、ある高専を中退した人からメールをいただいた。そこでもう一回だけ高専について書こうと思った。
 高専は何の準備もなく設立された。1962年に第一期生が入学したとき、校舎すらなかった。沼津高専では中学校の古い校舎を借りて仮校舎とし、そこで授業をおこなった。高専の設立前には、学生は全員が寮にはいるという噂もあったが、校舎もないような状態で寮があるはずがなかった。しかしどうしても寮の必要な学生がいるため、沼津市から臨海寮を借り受けて寮とした。臨海寮というのは、沼津の有名な千本松原(せんぼんまつばら)のところにあった夏だけの集団合宿用の寮であった。古くてぼろくて、通年で住むのはとても無理と思えるようなものであったが、そこを一期生の寮とした。一期生はこの海沿いにある寮から、かなり距離がある中学校まで通学した。ちなみに千本松原は昔から景色のよいところとして有名であり、若山牧水の「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」の歌碑がある。
 私を含む二期生が入学するとき、校舎がかろうじてできた。仮校舎の中学校よりももっと山奥になった。寮は学校の敷地内に一期生を収容できる分だけでき上がった。一期生はその寮に引っ越して行った。そこで二期生の寮として臨海寮がそのまま使われることになった。私はこの臨海寮に入寮した。この臨海寮から山奥の学校まで毎朝スクールバスが出た。しかし帰りは、寮生の帰り時間がまちまちなので、一般のバスを使うことになった。直通のバスがないため、駅までバスで戻り、駅で別のバスに乗り換えるか、あるいは時間がかかるものの駅から歩くという方法で寮に戻った。私のような田舎出身者にとっては沼津市でもずいぶん都会に見え、沼津市の中心街を歩くのが楽しみで、よく歩いて帰った。
 その点について、どうでもいいことだが不思議と印象に強く残っていることがある。沼津の中心街に仲見世通りというのがあり、その道を通って寮に戻ることが多かった。ある日、その通りを歩いていると、突然、「赤い夕陽が校舎を照らし」というはじめて聞く曲が大きな音で流れてきた。この曲が舟木一夫の「高校三年生」であることがすぐわかった。曲は気にいったが、「そういえばオレには高校三年生がないのだ、「高専五年生」などという歌はできるはずもないし」と思い、複雑な心境になった。
 高専に入学した当初、学校は二つのことを強調していた。一つは中堅技術者ということであり、いま一つは「学生」であるということである。
 高専教育は中堅技術者を育てることが目標であった。耳にタコができるほど、中堅技術者になるのだ、と教えこまれた。校歌とは別に「沼津高専音頭」という歌があり、その歌詞が沼津高専の教育目標を明確にしていた。思わず笑ってしまうような歌詞だが、作詞者は大まじめに作ったのだろう。しかしこの「沼津高専音頭」はだれが作詞作曲したのだろうか。沼津高専十年史には、「沼津高専音頭」なるものについてまったく記述がない。学生が勝手に作ったとは思えないのだが。ところでその歌詞は、不正確かも知れないが私が覚えている限りでは、次のようなものであった。

浜は千本どんと打つ波よ
男度胸と意気の良さ
若い命を5つ年かけて
明日の日本(にほん)を
明日の日本(にほん)を創るのさ
工業なんだそうなんだ
中堅なんだ日本(にっぽん)の
おいら沼津の高専生

 「沼津高専音頭」は、まずはじめに男の学校であることを「男度胸」として強調している。たとえ事実上は男子校であったとしても、建前としては共学であるが、音頭では本音が強調されている。そして日本、工業、中堅がキーワードとなる。
 中堅がたえず強調されたにもかかわらず、実のところ、中堅とは何であるか、不明確であった。国語の教師が、「中堅とは上と下の中間ではない、中心である」と訓話したしたことがあるが、いかにもいかがわしい話で、もし中心であるならば、中核技術者というような表現の方がいいだろう。結局、概念がよくわからないまま、中堅技術者たれ、とたえずお説教されていた。
 学生であることが強調された、というのは次の点である。入学してからすぐ、学生主事はわれわれに語った。「皆さんは学生です。皆さんと同世代で高校に通っている人たちは生徒です。学生と生徒は大変違います。生徒は学校が決めた細かい規則や命令に従います。学生は自分で判断して自分の行動を決めます。大学生と同じです。皆さんは学生であることに誇りを持ってください。」この学生イデオロギーは私を大いに喜ばせた。そして事実、1年生のときには、たしかに学生であると実感した。そう感じたが一番大きな理由は、臨海寮での寮生活であった。
 臨海寮の施設は、ひどいものだった。トイレにしても風呂にしても。居住空間は8人一部屋で、部屋の真ん中が共通部分であり、個人のスペースは一人が1畳余を占拠していた。居住スペースはいわゆる蚕棚ふうになっており、2層になっていた。各人は自分の居住空間をカーテンで仕切っていた。そこだけがプライバシーのある部分であった。私は二階部分にいた。壁、といってもベニヤ板一枚隔てた隣部屋の寮生と気が合ったので、ベニヤ板をくり抜いて相互に行き来できるようにした。私の部屋には電気工学科の学生が6人、機械工学科が2人だった。学校で電気工学科のクラスは1クラスしかないので、この6人の電気工学科の寮生は、24時間365日生活を共にしている感じだった。中学の時にももちろん、人には個人差があると分かっていたが、こういう24時間365日の共同生活をしたとき、個人差というのは中学生の時に考えていたよりもはるか大きいものであると思わざるを得なかった。施設はひどかったが、生活は楽しかった。個人の、あるいは集団としての寮生の意思が尊重されているように思えた。学生だと実感した。
 しかし学生であるという実感は、2年生になるとともに完全に消滅した。生徒どころか、生徒以下ではないかと思うようになった。そのように大きく変わったのは、2年生になって学校の敷地内に寮ができあがり、そこに移ったからである。施設としてはたしかに改善されたが、管理形態は最悪になった。学校は詳細な寮規則を一方的に押しつけ、さらに寮生の中から各種の寮委員を選んで任命した。部屋はプライバシーを守るような形にはなっていなかった。寮生活は24時間中、規則、命令、監視下にあった。私はタコ部屋にいるような気がした。学校は山の中ともいえる場所にあり、外界と完全に隔離された場所に閉じ込められて100%管理されている、という感じであった。高専を中退した後で冷静に判断したとき、なぜ1年生と2年生でこんなにも違ったのかを理解できた。
 高専教育は、もともと、私が2年生のときに受けたような管理教育を目指していた。国立高専30年史に次のような文章がある。
 「新しい学校制度の高専は中学卒業直後の若年から5年の一貫教育で概ね学部卒に近い教育効果をあげることが目標となっているため,教育課程の編成,学習指導に格別の工夫が必要であり,課外活動,精神衛生,保健管理等の厚生補導面についても細心の注意と配慮が要求され,大学に屡々見うけられる厚生補導不在は絶対に許されない。」
 1年生の時のような自由な雰囲気は、学校が創立されたばかりだという特殊事情のために生じたのだろう。第一に、最初の1、2年は授業内容を含めすべてが暗中模索の段階であり、教官は多忙をきわめ、学生の管理に十分な時間をさくことができなかった。創立三年目にして少し落ち着いたので本格的な学生管理に乗り出した。第二に、一年生の時の臨海寮では、寮務主任が沢田真養さんだった。地理を教えていた。沢田さんは寮生を信頼し、お説教めいたことを言ったこともなく、ましてや寮生の生活に介入しなかった。つまりわれわれを学生として接してくれた。沢田さんのこの個人的な方針が臨海寮を居心地の良いものにしていたと私は思っている。
 一年生のときには、私には高専を中退するなどという考えはまったくなかった。将来のことを考えたことはなく、学生生活というのはこういうものだ、とと思って満足していた。しかし二年生になって完全な管理教育に入ると、私は急速に高専教育に対して反感を抱くようになった。とりわけ学生主事にはだまされたという気持ちが強かった。授業をサボるようになり、授業に出席していたとしても、授業とは関係のない本を読んでいた。そのころ読んでいた本をすべて覚えているわけではないが、たとえば山岡壮八の『徳川家康』を毎日図書館から借り出し、授業中に一日1冊ずつ読み、すべて読んだ。もっとまっとうな本を読んでいたならば、と悔やむことがないではないが、そのころなぜか和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』とか『風土』なども読んでいた。なぜこんなふうな組み合わせになったのか、今となっては思い出すこともできないが、多分、図書館のせいである。図書館は貧弱だった。まして社会科学系の本はほとんどなかった記憶がする。数少ない小説や人文科学系の本を手当たり次第に読んだような気がする。和辻にしても、彼の思想内容を知っていて読み始めたのではなく、読んではじめて和辻の考えに触れた。
 授業内容がわからなくなったから授業をサボるようになったのか、授業をサボるようになったから授業内容がわからなくなったのかはわからないが、とにかく加速度的に授業内容が理解できなくなった。一般教育科目は何の問題もなかったが、学校に対する反発が強まるにつれ、専門教育への嫌悪感が増していった。私は中学生の時には、科目を問わず、授業内容はすぐ理解できた。といっても、前提条件があった。私の中学校は静岡県の中で学力の低い地域だった。本当かどうかは知らないが、中学生の時に、静岡県でもっとも学力の低い地域だと聞いた記憶がある。だから授業もできるだけやさしくしていたのだと思う。しかし同じ授業を聞いていながら、よく理解できない同級生も多かった。その当時私は、授業を理解できないということが理解できなかった。ところが高専二年生になって落ちこぼれ学生になったとき、授業を理解できないということがどういうことか、非常によく理解できるようになった。頭の中にまったく何も残らないのである。右の耳から聞いたことが左の耳から抜けていく、目で読んだことが鼻から抜けてゆく、という感じであった。要するに、分かるということは頭の中に何かが残ることであり、分からないということは、なにかが頭の中を通り過ぎるだけである。このことがわかってから私は、分かりそうもないことを分かろうとする努力はムダである、と確信した。
 管理教育であったことと、高専生が政治問題へ関心を持たなかったこととは表裏一体である。高専で政治問題を議論した記憶はまったくない。図書館に社会科学の本がほとんどなかったことも意図したことであろう。このことで私は一つのことを思い出している。1965年のことだったが、ある日私は親しくしていたある一期生の下宿に遊びに行った。彼の部屋には何冊かの雑誌が広げられており、彼はそれらを読んでいるところであった。雑誌は『世界』など総合雑誌で、いずれも日韓条約を特集していた。私は衝撃を受けた。学生ならば当然知っていなければならないことについて私は何も知らないのだ、と思った。日韓条約をめぐって賛成論と反対論があることくらいは私でも知っていたが、賛成論や反対論の中身についてはもちろん、条約の内容について何も知らなかったし、関心もなかった。彼は日韓条約について私に何も語らず、ただ雑誌を片付けただけだった。私は私で、日韓条約とは何ですか、などと聞くこと自体私の無知をさらけ出しているようで恥ずかしく、何も質問しなかった。いつものような雑談をして私は帰った。しかし高専生の中にもこういう問題意識を持っている人がいることを知り、私も勉強しなければ、と思った。
 高専卒業生について、たしかに専門知識は備えているが自立心に乏しい、とか、専門知識に比べて一般教養がなさすぎる、というような評価が広くおこなわれている。私はそうした評価が誤っていると言う気はない。私自身も、高専教育の欠陥を痛感したことがある。大学に入学してしばらくして、寮生同士で雑談をしている時、なんのテーマだったかは覚えていないが、誰かが、「それはエコール・ド・パリの真似だろう」と発言した。私を除く全員が、そういえばそうだ、とうなずいて別の話題に入っていった。私はエコール・ド・パリを知らなかった。私が大学に入学した60年代後半には、まだ学生の見栄というものがあった。生半可な知識を持ってマルクス、ヘーゲル、サルトルなどについて議論するのである。見栄でする議論の時には、お互いにそれが無理をした議論だということをどこかで承知していた。そういう時に私の知らない言葉がでてきても、オレの知らない言葉だが、どうせその言葉を使っている本人もよくは知らない言葉だろう、と思ったに違いない。しかし見栄を張る必要のない何気ない雑談の中だったので、私は知識不足を認めざるを得なかった。お前は高専教育からの落伍者だからお前の例は高専教育の水準を表していない、というようなコメントは的はずれである。私は高専の専門教育からは完全に落後したが、一般教育については何の問題もなく単位を取っている。
 高専卒業生が自立心に乏しいとか、一般教養が欠けていると批評されるのは、高専教育の特質にある。徹底した管理教育をおこない、そして一般教育科目を削って専門教育を増やしているのであるから、当然ともいえる。初期の高専生は、場当たり的教育政策の被害者であると私は考えている。教育改革は、その教育改革に巻き込まれた学生たちの生涯を決めるような重要なことである。高専を作った当事者たちは、そのようなことは考えもしなかったであろう。たんに目の前に技術者不足があり、それを当面どのように埋めるか、というご都合主義的な問題関心しかなかった。
 3回にわたって初期高専について書いてきたが、書きながら思い出したこともいくつかあった。また数年前に沼津高専の同級生と連絡が取れ、卒業写真などを送ってもらったことから思い出したこともある。書きながら、あらためて高専の3年間とは何だったのか、考えた。そして意外にも、この3年間が現在の私につながるかなりの部分を決定したのではないか、と考えるようになった。
 なによりも、私が社会科学を勉強する気になったのは、高専教育のためである。高専教育のために工学系統の勉強が完全に嫌になり、私が勉強したいのは人間と社会についてである、と強く思うようになった。大学4年生になり進路を決めなければならなくなったとき、大学に進学したそもそもの目的を思い出した。私は人間と社会を勉強しに大学に入ったが、未だ自分の考え方持ち得ないでいる。私の考えていることは、しょせんは、人の受け売りにすぎない、大学院に進学して自分なりの考えを見つけよう、と思った。
 第二に、高専生活の中で権力と権威に対して徹底した反感を抱いた。学校は権力であり教師は権威であった。少なくとも彼らは、そういう態度であった。蟷螂の斧であることは百も承知で私は反抗した。権力と権威を自負するものに対する私の嫌悪感は高専生活で決定的となった。
 第三に、学校と教師を否定した私は、勉強とは自分ひとりでするものであり、人から教えられるものではない、と思うようになった。こういう考えからは、いわゆる師弟関係は成立しがたい。これまでお世話になった人は多いし、いろいろ学んだ人もかなりの数にのぼるが、いわゆる師弟関係とはならなかった。
 第四に、進退きわまるような場合でも、なんとかなるのではないかという楽観論を持つようになった。高専三年の時は、私も追い込まれていた。大嫌いの専門科目の単位をとらなければならない、ひとりで受験勉強をしなければならない、親からは中退を猛反対される、たとえ大学に受かっても学生生活を送るだけのカネを稼ぐことができるのかどうか、難問山積という感じであった。しかしどこかで、なんとかなるのではないかという気がしていた。そして実際なんとかなった。それ以後、研究論文を書くことができるのかどうか、一人前の研究者になることができるのかどうか、就職できるかどうか、など不安を覚えることはあっても、なんとかなるのではないか、と思いが強かった。
 これで私の高専物語は終わる。私の高専生活はわずか三年、しかも40年も前の話である。それにもかかわらず、今となってはそれも楽しい思い出、というような気持ちになれない。何気なく脇道にそれてしまったことに対して初期高専生が支払った代償はあまりに大きすぎるのではないか、その思いが脳裏から去らない。



(2004年9月20日)

 高専について、いま少し述べておこう。高専は学生数も少なく、その内容が社会に広く知られているとはいえない。まして、40年前の創立期の高専については、ほとんどまったく知られていないであろう。私の記憶も断片的なものでしかないが、歴史にとどめるという意味では、書き留めておく価値があるかもしれない。もちろん、沼津高専の事例である。
 高専は、高等教育機関である。高等学校は中等教育機関であるため、高専は高校とはまったく別のジャンルになっている。高等教育機関なので、教員は、教授、助教授、講師という職位になる。では大学と同じものかというと、そうではない。大学と高専との違いについては、学校教育法が明確に規定している。
「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」
「高等専門学校は、深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成することを目的とする」
 つまり大学は「専門の学芸を教授研究」するのに対して高専は「専門の学芸を教授」するのであり、「研究」の義務はない。また、大学は「知的、道徳的及び応用的能力」を育成することを目的としているが、高専は「職業に必要な能力」を育成する。高専生は「知的、道徳的及び応用的能力」を期待されていない。中学を出たばかりの私は、もちろん、大学と高専とのこのような大きな違いを知らなかった。ずっと後になって学校教育法のこの条文を知り、たしかに高専とはこのようなものであった、と得心した。
 高専には大学と違って、自治権がない。文部省によって任命される校長が、法律や規則の範囲内であればすべて独断で決めることができる。文部省によって任命される校長、と書いたが、文字通り文部省が任命しているのであり、大学のように、学内で選出された学長が文部省によって形式的に任命されるのではない。強大な権限を持つ校長は、国立大学工学部を定年退官した人物、あるいは定年間近の人物から選ばれる。沼津高専の初代校長は静岡大学工学部から来た井形厚臣という人物であった。私は井形校長とは直接話したことがないので、人柄は知らない。彼は高専設立3年目で私が2年生のときに急逝した。その後に、名古屋大学工学部から土井静雄という男が2代目の校長として赴任してきた。この人物は、研究者としてはそれなりの仕事をしたようであるが、人間としては愚物としかいいようがない。工学の専門科目担当教員は、いずれも人間的な魅力の乏しい人たちであった。そうしたことも私の工学嫌いを増幅したのだが、しかし土井校長と比較すれば、彼らははるかにまっとうであった。私の中途退学について土井から呼び出しがあり、校長室で会った。私は唖然とした。その愚劣さに。
 現在では高専の教官(教員ではない)の採用ルートは確立している。若手については大学院修了者を、その他については公募が一般的であろう。しかし高専を設立するときには、いろいろなところからかき集める以外になかった。高専の授業科目には、普通高校に比べれば格段に少ないとはいえ、国語、英語、歴史(たしか世界史と日本史に分化されていなかった)などの一般教育科目があった。こうした一般教育科目の担当教官については高校の教師を引き抜いてきた。機械工学や電気工学の専門科目の担当教官は、大学から移ってきた。
 こうした混成部隊によく見られるように、大学組と高校組はしっくりとはいっていなかった。正直といえば正直であるが、そうした感情を学生の前でも隠さなかった。ある大学組は、ある時、「ああ、○○先生(一般科目担当)は高校出身ですからね」と学生の前で発言、高校組を低く見ていることを露骨に示していた。他方、高校組からは、次のような発言があった。「あの人たちは静大(静岡大学)の万年助教授で、大学でも扱いに困っていたので、私が教育委員会にいるときに、沼津高専に斡旋してやったのです」。これを聞いたとき、私は大学についてまったく何も知らなかったので、高校組が「万年助教授」を見下していることは理解したが、それ以上は理解できなかった。
 ずっと後になって、私はなぜ「万年助教授」が高専に来たのかを理解した。大学から高専への移動については、二つの大きな問題があった。一つは、すでに述べたように、大学は教育研究機関であるのに対し、高専は教育機関であった。高専の実験設備は教育用であり、研究用ではなかった。つまり研究を志す人は大学に残るのが当然であり、高専に移ることは事実上、研究の放棄を意味した。それに加えてさらに大きな問題があった。給与である。大学は俸給表として教育職(1)を適用される。高専関係者は高専設置の時に、高等教育機関なので大学と同じく教育職(1)を高専の教官にも適用するよう要望した。しかし実際には教育職(1)よりも低い教育職(4)という俸給表が新設され、高専の教官に適用された。研究はできない、給与は下がるという条件で大学から高専に移るとすれば、よほどの事情がある場合に限られる。よほどの事情は、実際には、高専の設立当初は定年が大学よりも遅かったため大学の年配教授が再就職という形で高専に移る場合と、「万年助教授」の場合である。
 具体的な給与計算を知らないためはっきりとはいえないが、教育職(1)の「万年助教授」と教育職(4)の教授とではおそらく高専の教授の方が給与は高いと思われる。「万年助教授」だと40歳くらいでほとんど昇給しなくなるからである。つまり高専と大学との制度的な違いを前提とすると、大学から高専に移動する人は、「万年助教授」が主力となる。高校組にしてみれば、大学で通用しなかったと思える「万年助教授」が高専に移ってきて、一般教育担当の高校組を軽んじることは、我慢できないことであったであろう。
 設立当初の大学組と高校組に加え、やがて新規大学院修了者が採用をされるようになった。大学組はほとんどが定年まで高専に勤務した。高校組は、チャンスがあれば大学に移った。たとえば数学の教官は、静岡大学教養部に移った。新規大学院を修了者は、もともと大学が就職希望先であり、運がよければ大学に移ることができた。高校組のなかには、再び高校に戻る人もいた。地理の教官は、私が信頼した数少ない教官のひとりであったが、私が中退した翌年、普通高校に戻っていった。彼がどのような理由から高校に戻っていったのか私には分からないが、大学組と高校組の確執に嫌気がさした可能性が強いと、私は思っている。
 やはり、というべきか、校長の右腕と左腕といえる学生主事と教務主事は大学組が占めた。私は学生主事と犬猿の仲であった。といっても、相手は権力者であり、こちらは一学生なのであるから、勝負にならないことは明々白々であった。学生のやることにいちいち介入し、学生への全面的な権力的管理をおこなっている張本人だ、と私は思っていた。後から判断すると、それは半分正しく、半分は誤りであった。半分は誤りであったというのは、全面的な管理は、彼個人の判断でおこなったというのではなく、全国の高専すべてでおこなわれていたからである。彼はその実行者にすぎなかった、とも言える。しかしたんなる実行者とも言えない。非常に熱心であったからである。所帯が小さいとはいえ(1学年120人)、彼は大半の学生の名前と顔を知っていた。まして、多少とも目立つ学生については、家族状況とか勉強状況とかについても把握していた。私はきわめて反抗的であるという意味で、彼にとって目立つ学生であった。さまざまな折りに、私に説教した。私に説教など無意味であると彼にもわかっていたはずである。それにもかかわらず説教を繰り返す彼を私はますます嫌悪した。
 彼について、忘れることのできないシーンがある。一年生と二年生のとき、私は卓球部に所属していた。陸上部長距離の友人が、お前も少し走れ、というので、時々ランニングをしていた。沼津高専では毎年1月にマラソン大会と称する全員参加のランニング大会を開いていた。8キロから9キロの距離ではなかったかと思う。2年生のとき、私はベストテンに入るべく飛ばしたが、後半になって腹痛になり、18位か19位に終わった。3年生のときには、大学受験が目の前でもあり、当初は参加する気はなかった。ところが実際に大会の日が迫ってくると、なぜか参加したいと思うようになった。ずっと練習をしていないので、順位は惨憺たるものであったが、それでも上位3分の1には入っていた。走り終わって友人と2人で雑談していたところへ、学生主事がやってきた。また不愉快な会話が始まるのかと思って身構えると、彼はニコニコと笑って、じつに優しい声で「野村君、走ったのですね。よく走りましたね。入試が近いから君が参加するはずがない、と思っていたんですが。よく走りましたね」と私をほめた。彼が心から私をほめていることは、私にもよくわかった。しかし彼がなぜ私をほめるのか、私にはまったく分からなかった。あまりにも意外であったため、私は一言も返事ができなかった。
 私が大学受験資格を得るためには、すべての授業について合格点を取ることが必要であった。1科目でも不合格となれば、私は「3年次修了」とはならず、大学受験資格のない中卒となるはずであった。そして私が不合格点をとる可能性がもっとも大きかったのは、彼が担当していた応用物理であった。しかし私は、彼に頭を下げて合格点を乞うような真似は絶対にしたくないと思っていた。結果として彼は私に合格点を出した。そのことを知ったとき、私は、マラソン大会の後で彼は私に単位を出すことを決めたのだ、と、思った。私がいかに出来が悪く問題の多い学生であるとしても、中退することが決まっており、大学受験資格の有無が私のその後の人生を決めることは明白である以上、不合格点を出すには忍びない。しかし合格とするには問題がありすぎる。おそらく彼はこのような考えで迷っていたと思われる。そのようなときに私が、全学の行事として重視されていたマラソン大会に参加した。彼としては、私に合格点を与える絶好の理由ができたと思ったのではないか。
 高専の教官となった人たちは、どのような気持ちでいただろうか。私は高専を中退した後、沼津高専の教官とはだれとも会ったことがない。



(2004年7月6日)

 いま私は、戦前の経営身分制との関係で、戦後の経営民主化によって企業と学歴主義がどのように変わったのかについて、原稿を書きはじめている。その中で補足的に、高等専門学校卒業生の企業内待遇について、次のような文章を挿入しようと思っている。

補説 高等専門学校卒業生と企業内待遇

 戦後の学校教育体系は6・3・3・4制となった。この制度の例外は、短期大学であった。新制大学への移行の時、準備が不足して大学に移行できない高等教育機関に対する暫定的な措置として短期大学制度が導入された。ところが短期大学は地方に分散し、しかも学生として女性の比率が圧倒的になるという特色のある発達をしたことから、1964年から恒久的な制度となった。
 それにたいして高等専門学校(高専)は、はじめから恒久的な制度として6・3・3・4制の枠外に設立された。1962年から65年にかけて次々と設立された高専は、高度成長による技術者不足を解消するために、中学卒業生を5年間の一貫教育によって「中堅技術者」を養成することを目的としていた。修業年限から見れば中卒で5年の教育機関ということで、短大卒と同じになる。しかし高専の設立当初から、4年制大学の工学部卒と同等の学力が目的とされていた。4年制大卒よりも2年間修業年限が短いにもかかわらず、同等の専門学力が可能とされたのは、次のような理由からである。大学工学部卒業生の場合、普通高校での一般教育、大学受験勉強、さらに大学入学後、高校での学習と重なる2年間の一般教養課程がある。専門教育は、大学2年の後半からであり、卒業までの教育時間はおおよそ3100時間である。しかし5年一貫の高専教育においては、高校と大学一般教養課程での一般教育の重なりや、専門分野では必要としない一般教育をはぶくことによって、専門教育を3640時間以上をおこなうことができる(国立高等専門学校協会[1992]18-19)。
 高専の設立直後、高専全体で入学志願者倍率が17.5倍(1962年)、13.3倍(1963年)と10倍を超えた(国立高等専門学校協会[1992]410)。その最大の理由は、高専卒業生は修業年限は短大と同じであるが、高い専門教育のため、就職した場合、大卒者と同じ待遇を受ける、と宣伝されたことにある。この宣伝は、経済的に恵まれない中卒者を引きつけた。高専が経済的に恵まれない中卒者を引きつけた事実は、高専関係者によって早くから認識されていた。1984年の「大学設置審議会高等専門学校分科会の答申」は、「学部卒と比較して2年早く就職できるため、優秀ではあるが経済的に恵まれない中学校卒業者に、工業関係の高等教育を受ける機会を提供する意義は大きいものがある」(国立高等専門学校協会[1992]285)、と明記している。
 しかし、企業における高専卒者の待遇は、高専が期待したようにはならなかった。第一期の卒業生を送り出してから10年あまりたった時期に(調査時点は1979年?)、国立高専協会事務局は卒業生と企業に対してアンケート調査をおこなった。「職務能力が大卒同等の場合の業務と給与」について、資本金百億円以上の企業は、「業務給与とも大卒同様」0社、「業務は大卒同等、給与は大卒以下」28社、「業務も給与も大卒以下」3社、「記入なし」7社、という結果であった。「官公庁」はそれぞれについて2、17、0、5という結果であり、大企業と官公庁は「業務は大卒同等、給与は大卒以下」としていることが明らかになった(国立高等専門学校協会[1992]61)。高専の1987年卒者と94年卒者にたいして98年におこなわれた日本労働研究機構の調査結果も、同様である(日本労働研究機構[1998]78-87)。
 結局、高専卒は大卒と同じ資格とはならなかった。当初のもくろみとは異なった結果になったのは、いくつかの理由が考えられる。
 第一に、高専はきちんとした理念のもとに作られたのではなく、いわばご都合主義的に設立された。1950年代中頃からの文部行政関係者の議論では、技術者不足への対応と短期大学の改革とが同時に論じられていた。暫定的な存在である短期大学に代わるものとして「専科大学」制度を作り、短期大学を「専科大学」に変えようとした。「専科大学」の入学資格は高校卒業程度、修業年限は2年または3年とする。必要がある場合には3年の前期の課程を有する5年または6年制とする、というものであった。この構想は「専科大学」案として1958年に国会に提出された。短期大学関係者は、この法案を、短期大学を大学制度の枠外に置くようにするものだとして猛反発し、審議未了に追い込んだ。その後もこの案は国会に上程されたが、成立しなかった。技術者不足が深刻化する中で、文部省は短期大学の改革とからめた技術者養成学校の設立をあきらめ、1961年に高専設立法案を提出した。短期大学とは関係のない高専設立には短期大学関係者の反対もなく、法案は成立した(国立高等専門学校協会[1992]15-17)。高専の設立は短期大学改革の試みが挫折したためであった。高専は高等教育機関としての独自の理念にもとづいて設立されたものではなかった。このことが、高専の社会的位置づけをたえず曖昧にし、今日にいたるも、明確なイメージを打ち出すことができないでいる。
 第二に、高専設立の背景は、高度成長にともなう技術者不足の深刻化であった。大学工学部からの技術者供給が間に合わないと予測されていた。ところが、1960年代に大学工学部が急膨張した。1960年におよそ9万3千人であった工学部学生数は、65年に約17万5千人に、そして70年には28万4千人まで増大した。10年間で3倍になったことになる。それにたいして高専の学生数は70年に約4万4千人で、工学部と比較して小規模であった(『文部統計要覧』)。工学部の急速な拡大によって高専による技術者養成の必要性は小さくなった。その上、高専が供給した「中堅技術者」の数が少ない以上、高専の存在感が薄れることは必至であった。
 第三に、高専生の学力低下の問題がある。高専設立当初は10倍を超えた入学志願者倍率は、その後急速に低下し、設立5年目の66年には4.5倍に、そして10年目の2.9倍になり、それ以後はずっと2倍と3倍の間で推移している(『学校基本調査報告書』)。最初に設立された12校の国立高専のひとつである沼津高専で設立当初からかかわってきた教師たちの創立10周年記念座談会におおいて、次のような率直な意見がかわわされている。教授A「入学試験のとき、ぼくら採点した記憶があるでしょう。やっぱり一期二期三期あたりまでよかったね。とにかくもうこっちが感心するくらい」、教授S「だからまあ相対的なことが相当あるにしても、ちょっと総体的に下がりすぎたかなあ」(『沼津高専十年の歩み』146-47)。そしてトヨタ自動車工業に就職した卒業生は、次のように報告している。「これはその当時の担当者から直接聞いた話ですが、(昭和−−野村)43年に初めて高専卒を採用した際、大卒と同じ試験問題で試験したところ旧帝大に次ぐ成績の卒業生もいて、金の山を発見したように感じたそうです。もっとも私のような5期生ともなると大分レベルダウンしていますが。このレベルダウンにより当然会社の高専卒に対する評価は変化しているはずです。」(沼津高専同窓会『同窓会誌』第4号、1974年、12頁)
 このような事情のため、高専卒業生は結局、大卒と高卒の中間として処遇されている。これは学歴主義の強い日本企業において、当然の結果ともいえる。
 今日、高専は設立当初の目的からいえばすでに変質している。高専の設立目的は「中堅技術者」の供給にあった。ところが、2003年に国立高専を卒業した約8万8千人のうち、就職したのはわずか53%にすぎず、41%は大学などに進学している(『文部統計要覧』)。高専卒業後の進学率がこれだけ多いということは、多くの高専生にとって高専が大学進学への経路となっていることを意味しており、高専が独自の高専教育において人材を社会に供給しているとはいいにくい状況となっている。
 さらに高専は別の問題もかかえている。現在では大学工学部卒のうち1/3近くが大学院修士課程に進学している。有力な大学工学部では、大学院進学者の割合は圧倒的である。たとえば東北大学工学部では、2002年度卒業生907名のうち83.5%が大学院進学である(http://www.eng.tohoku.ac.jp/eng/info/gakubu.html)。高専教育は懸命に工学部卒と同等の学力を持とうとした。しかし、高専教育ではどのように努力しても大学院修士課程の教育に到達できない。大学院修士課程を終えた技術者が増えれば増えるほど、高専卒は「中堅技術者」としてではなく下級技術者として処遇されるであろう。このことはすでに高専当事者によって十分に認識されている。1991年に国立高等専門学校協会は大学審議会高等専門学校専門委員会への意見書に、「「中堅技術者」の教育機関として発足した当初とは異なり、現在の高専は、「実践的(臨床的)技術者」を育成する研究教育機関として事実上定着していると認められる」(国立高等専門学校協会[1992]275)、と自ら記している。
 高専という新しい学校制度は、日本の企業にインパクトを与えなかった。そして高専自身は、存在理由を失いつつある。


 高専にかんするたったこれだけの文章を、私はなかなか書くことができなかった。私は高専制度に対して特別の感情を持っている。それは、日本語ではうまく表現できない。日本語の「恨みつらみ」ではなく、韓国語の「恨(ハン)」がおそらく適当な言葉であろう。
 私は、1963年から三年間、沼津高専電気工学科に在学した。そして1966年3月、3年次修了とともに中途退学した。沼津高専は62年に最初に設立された12校の国立高専のひとつであり、私は二期生であった。上述の文章のなかで、「やっぱり一期二期三期あたりまでよかったね。とにかくもうこっちが感心するくらい」といわれている、その二期生であった。私自身は高専教育からの落伍者であり、出来の悪かったことは明白であるが、私がつきあっていた一期生と二期生についていえば、文句なく優秀であった。彼らが高専卒という学歴で企業内生活を送ったことについて、私は高専という学校制度を作った人々を許すことはできない。
 初期の高専生の気持ちをよく表しているのは、60年代末の学園紛争である。大学闘争の影響を受けながら、全国の高専で高専闘争がおこなわれた。それについて、『国立高等専門学校30年史』は学校側の立場から記述している。学校側の立場からとはいえ、その記述を通して、初期の高専生の怒りと悲しみが十分に伝わってくる。
 高専闘争には、政治的党派はほとんどかかわっていなかった。「総じて大学の紛争は、革マル、中核、反帝学評等々の派閥争いを内蔵しての学園民主化闘争であったが、高等専門学校の場合は学校内部の問題がその発端となっている」(p.42)。全国の高専で共通した争点として、「主事の添書」、「掲示と印刷物の自由化」、「服装の自由化」、「企業迎合教育」があげられている。「掲示と印刷物の自由化」、「服装の自由化」、「企業迎合教育」はわかりやすい要求である。「主事の添書」とは、高専学生会の通信にはかならず学生主事(教授)の添え書きを必要とした。そして、郵便物の中には学生主事の添え書きが入っているはずであるという理由から、こうした郵便物を学生主事がすべて開封していた。それに対して学生が、学生の自治活動への不法介入であり、文書の検閲であると反発したのである。
 こうした管理教育への反発とならんで、高専制度そのものへの批判があった。その部分をそのまま引用しよう。
「高専教育の袋小路
 創設初期の学生はそれぞれ10数倍の入試競争を征服して入学した粒選りの優秀者であった。高等専門学校の卒業者は学校教育法により「監督庁の定めるところにより大学に編入学することができる」と法的には大学に編入により進学の路が開かれている形となっているが,実際にうけいれる大学は皆無であったため,これら粒選りの優秀者も進学の夢をすてて就職するか,高等学校卒業者に混って大学入試に挑戦するかの方法しかなかった。
 創設して日の浅い国立高等専門学校協会ではあったが,総会において,各学校の所在地区の大学に編入の機会を与えるよう働きかけることを申し合せるとともに,文部省に善処方の要請を行ったが両者とも反応がみられなかった。そのため「高専教育は袋小路」と断定して若者に将来への夢と希望を与えないと紙面を賑かす新聞も現れ,高等専門学校を選んだことが,あたかも失敗であったかの印象をもたせ,学生に厭学気分を誘発させた。若者は成長の段階で一様に自己の人生進路に疑問と迷いをもつものであるが,学生の中には,学年の進むにつれて性格と専門科目との関係に不安を感じている者もあり,その中の少数の者は,このマスコミの筆先で迷いの度を増し,そのなやみの鉾先を教育方法と教育課程に向け,産業癒着の詰めこみ教育で非民主的で人権を認めていないとし,将来への夢を持つ者は高等専門学校を志望するなと,自己の出身中学の後輩に宣伝する者が生じたり,特定校では自己の失敗を後輩に繰り返させないためと称して入学試験の施行を防害しようと高専教育を酷評した数千枚の印刷物をつくり受験者と父兄に配付しようと準備を進める者までみるに至った。」(国立高等専門学校協会『国立高等専門学校30年史』44)
 学校側の記述であるため、例によって、マスコミなど外部からの否定的影響を強調し、「少数の者」の行為にすぎないなどとしているが、初期高専生の気持ちを如実に伝えている。「将来への夢を持つ者は高等専門学校を志望するなと,自己の出身中学の後輩に宣伝」したり、「自己の失敗を後輩に繰り返させないためと称して入学試験の施行を防害しようと高専教育を酷評した数千枚の印刷物をつくり受験者と父兄に配付」しようとした、という記述には、痛切きわまりないものがある。参加人員の数からいえば、大学闘争の方が比べものにならないほど大規模であった。しかしこれほどせつない行動はなかったのではないか。私はこのような行動を起こした初期高専生の気持ちが痛いほどよく分かる。この時期、私はすでに大学に在籍していた。もし私が高専に在籍していたならば、どのような行動をとっただろうか。
 高専闘争が起こったのは、1968年から70年ごろの間であり、一期生と二期生は卒業していた。したがってこれらのを闘争の先頭に立ったのは、三期生や四期生であった。沼津高専では、私も少しだけ知っていた三期生の男が中心的役割を果たしたと聞いたことがある。私の印象では、おとなしく、いかにも秀才らしい秀才であった。およそ学校側に反抗するなどということは考えられないような男であった。その彼が激しい行動にでた。彼の無念な心中を想うと、あまりにも哀しい。
 高専卒は大卒と同じ待遇になるなどと、虚偽の宣伝をすべきではなかったのだ。「優秀ではあるが経済的に恵まれない中学校卒業者に、工業関係の高等教育を受ける機会を提供する意義は大きいものがある」などと、制度的な失敗を覆い隠して、居直るべきではないのだ。「優秀ではあるが経済的に恵まれない中学校卒業者」には奨学金などしかるべき手段を講じて、正規の高等教育を受けさせるべきなのだ。一期生や二期生はあと数年で60歳の定年に達しようとしている。彼らがたえず大卒と比較した高専卒の待遇を意識していたとはいえないだろう。しかし折りにふれて、高専卒とういうことを意識せざるを得ない時があったのも、たしかであろう。
 私は高専2年生を終わるころから、中退することを公言してきた。電気工学科は40数人しかいないので、1クラスであった。つまり1年生の時から卒業するまでずっと同じクラスメンバーである。私が中退することはもちろん、クラスの全員が知っていた。私はその時に愚かにも、彼らの気持ちを察することができなかった。私は私で厳しい状況の下にあった。すでに高専にいる気はまったくなく、専門科目にはなんの興味も持てないものであった。しかし3年生の授業科目すべてに合格しないと3年生修了とはならず、大学への受験資格も失う。他方で、大学では社会科学を勉強することを決めていたので、文系の大学受験勉強をおこなわなければならなかった。大学に合格した場合には、学費と生活費を自分でバイトで稼ぐことになるため学費の高い私立大学は問題外であり、国立大学に受かる必要があった。こうした事情のため、自分のことで精いっぱいであった。
 結局私は、クラスメートの協力を得て、かろうじて、本当にかろうじて3年生の授業科目すべてに合格して3年次修了となった。某地方国立大学にも合格した。いろいろ考えて、浪人になる道を選んだが、クラスメートが私をどのように見ているのか、私は考えなかった。彼らは皆、私と違って、高専教育に疑問も不満も持っていないのだろう、と思い込んでいた。違ったのだ。彼らの高専教育に対する考えも、私にたいする見方も、ずっと複雑なものがあった。それは間違いない、と今の私は思っている。高専教育や、学校にたいする私のあけすけな批判は、いろいろな理由から高専にい続けることを選んだ彼らを傷つけたに違いない。本当に申し訳なく思っている。
 高専は、私にとってはなつかしい思い出というようなものではない。一期生や二期生の顔を思い浮かべながら、国家による詐欺行為への怒りと、高専を選んでしまった者たちへの哀切な気持ちとが入り混じったものである。そのような私が、高専について淡々と書けるはずがない。



(2004年1月11日)

 私がこのホームページを立ち上げた理由の一つは,世代の経験の持つ意味を考えたかったからである,と前回の「偶感」に記した。このことに関連して,私がだいぶ前から気になっていることについて,感想めいたことを書いておきたい。
 1997年に,加藤哲郎氏と「市民のための丸山真男ホームページ」とのあいだで,知識人についての論争があった。ウェッブ上で展開されたこの論争は,たしか活字にもなったと記憶している。この論争を読んだとき,私は強い違和感を抱いた。加藤氏は,次のように主張した。

 「貴HPは「われわれ市民」と名乗り、丸山真男を基準に「研究者の皆様」や「アカデミズム」に苦言を呈しています。当HPも「先生」とよびかけられました。インターネットは、「市民」と「知識人」との「対話」の場なのでしょうか? 丸山の「知識人」論や「疑似インテリ」範疇に立ち入る必要はないでしょう。「丸山真男の時代」は、まさに「大知識人」が「市民」を啓蒙しリードし、時には市民運動・社会運動や政党間の接着剤になることが可能な時代でした。同時にそれは、「層としての知識人」が日本史上初めて登場し、定着する時代でした。女性が政治にも学問にも加わり、大学進学率が3%から40%に急増し、第一次産業中心の農業社会は第二次産業中心時代を経ずに第三次=サービス産業従事者が多数派になる社会へと激変しました。「大知識人」や「論壇」は、その過程での「戦後民主主義」に重要な政治的役割を果たしましたが、やがてその機能は「大学」「学会」「マスコミ」「ニュースキャスター」などに制度化され、それ自身が膨大な労働力を抱える一大産業部門になりました。「大」のつかない「小知識人」は、「知識労働者」であり「市民」であり「消費者」でもある点で、エンジニアやホワイトカラー上層と大きく異なりません。「アカデミズム」という職域に分類され、研究・教育を業務として生計をたて、知識・情報商品を市場に送り出す「市民=生産者」となります。その市場の規模とカラーも変わりました。哲学書の発売に行列ができた時代は去り、コミックやパソコン雑誌やハウツーものと競合しながら「ポスト・モダン」から「ネオ・マルクス主義」「カルチュラル・スタディーズ」にいたるさまざまな記号やブランドをつけて、自分を含む「市民=消費者」「学生=受益者」に日々存在証明=価値実現を迫られているのです。」(http://member.nifty.ne.jp/katote/Maruyama.html)

 加藤氏は,丸山真男などの「大知識人」とその他の「小知識人」に分類している。この分類によれば,明らかに,大学に勤めて研究教育に関係している者は全員が「小知識人」ということになる。加藤氏は,自分は「大知識人」ではない,といっている。しかし加藤氏ほどの人物を,大学に勤めている並の人物と十把ひとからげに「小知識人」と呼ぶことは,どう考えても無理がある。加藤氏は,「大知識人」でないとするならば,「中知識人」とでも呼んだ方がいいであろう。
 と,このような茶々をいれるのが,この文章を書いた目的ではない。「大」であろうと「小」であろうと,加藤氏が大学に勤めている人たちを「知識人」と呼んでいることに,私は強い違和感を抱いたのである。
 加藤氏の定義に従えば,私もまた「小知識人」ということになる。しかし,たとえ「小」という形容詞がつくとしても,私は自分を知識人と規定したことは一度もない。また,私が知識人と呼ばれるならば,私はとうていそのような呼び方を受け入れることはできない。私の自己規定は研究者である。研究者と知識人とは,カテゴリーとして別のものである。
 研究者か知識人かについて,私は同世代のものと議論したことがないので断言はできないが,私の世代,つまり団塊の世代は,大半が研究者と答えると思われる。その傍証として,私が大学院生であったとき,院生同士で,「われわれ研究者は」というような言い方は何度もしたが,「われわれ知識人は」というような言い方はただの一度もしなかった,という事実をあげておこう。私自身も,大学院に進学するとき,研究者になろうと思った。知識人になろうなどとは,夢にも思わなかった。
 なぜ研究者であって知識人ではないのか,人によってその答えはさまざまでありうる。私の場合,学生時代に,加藤周一や堀田善衛などの自伝を読んだことが決定的であった。彼らの描く幼少年時代は,私の幼少年時代とは隔絶したものであった。知識人というものの生産がいかになされるのか,私は深く納得した。静岡県の辺鄙な片田舎で,チャンバラ遊び,紙芝居,ラジオからの落語,浪曲というような環境で育った私にとって,知識人の生産は,別世界でおこなわれるものであった。
 学問や学者という言葉もまた,私には関係のないものであった。大学に入学してしばらくして,大学闘争が始まった。全学無期限ストライキという騒然とした雰囲気の中で,何かしら高尚な響きのする「学問」とか,それにたずさわる「学者」などという言葉は,死語,廃語であった。
 しかし,世界について,社会について,私は無知であると強く感じていた。知るべきことが山ほどあるにもかかわらず,知っていることがほとんどないということを自覚していた。世界について,社会について,多少とも自分なりの意見を持ちたいと思っていた。そして私は研究者の道を選んだ。
 私の同世代には,こうした形で研究者の道を選んだものが大半ではないかと思われる。そして大学闘争が終焉した後の大学における知的雰囲気は,学生や院生に対して,大学での研究が「知識人」の生産につながるものとは感じさせなかった。つまり,大学闘争を経験した私の世代とそれ以後の世代は,知識人ではなくて,研究者になったのではないか。
 今日における知識人の問題は,知識人たるべき社会層が「大知識人」から「小知識人」へとスケールダウンしたことにあるのではなく,知識人が不在になっていることにあるのではないか。一方において知識人が不在であり,他方においてマスメディアがごく一部の研究者あるいは元研究者を便宜主義的に動員している。このような事情を抜きにしては,今日の世論形成のあり方が理解できないのではないか。私はそのように考えている。



(2003年12月3日)

 このHPを立ち上げた理由のひとつに,社会科学研究と世代について考えることがあった。
 小熊英二『<民主>と<愛国>−−戦後日本のナショナリズムと公共性−−』(新曜社,2002年)を読んだ。小熊氏の他の著作と同じく,大変面白く,勉強になった。太平洋戦争と敗北という未曾有の経験をどのような年齢でどこで体験したのかを軸にして,戦後日本のオピニオンリーダーたちの思想を解剖している。人の思想と体験とが小熊氏のいうほど見事に照応するものかどうか疑問なしとしないが,思想の理解として重要な側面をついていることは間違いない。
 この数年間,私は労働研究史の検討をおこなってきた。その中で,1930年代前半に生まれた一群の労働研究者と,私のような団塊の世代およびそれに続く世代との研究の継承関係について少し触れた。小熊氏の本は,思想と体験との関係を強調するだけでなく,ある体験を背景として構想された思想が,そのような体験を持たない後の世代によって誤解され,批判され,やがては無視されていくプロセスを追ったものでもある。思想や研究の歴史を語ろうとするとき,体験と世代の問題をもっと重視しなければいけないと私は思った。
 体験と世代の問題について,これまで私がまったく考えなかったというわけではない。しかし小熊氏の本を読んで,あらためて次のようなことの意味を考える必要を感じた。労働研究の世代についていうと,私のような団塊の世代の上に,1930年代前半に生まれた一群の研究者がいる。私が個人的にお世話になった栗田健,戸塚秀夫,兵藤サ,中西洋,下山房雄,山本潔,徳永重良,二村一夫各氏をはじめ,あと何人も名前を挙げることができる。私は,この世代がおこなった研究について,なぜそのようなテーマ設定をしたのか,その研究成果は何であるのか,内在的にそして正確に理解していると考えている。この世代と私とはおよそ15年の差がある。そして私よりも15年あるいはそれよりも若い世代の研究者の研究についていえば,彼らがなぜこのようなテーマ設定をしているのか,同感を持って理解しているとは言いがたい。この意味において私は世代的には1930年代前半生まれに同質のものを感じている。こうした感覚は私ひとりのものではなく,団塊世代のかなりの人たちに共通しているのではないか。
 団塊世代が1930年代前半生まれの世代に同感するものを見いだしているだけではなく,かの世代もまた団塊世代に同感するものを見いだしていると私には思える。1990年頃と思うが,酒を飲みながらの話として,私がある1930年代前半生まれの研究者に,「このごろ,私の世代のメンタリティーは,○○さん(飲み相手)の世代のメンタリティーに近いのではないかと思うようになりました」と言ったところ,「キミは今頃そんなことに気づいたのですか。ボクはずっと以前からキミらはボクらの世代と同じだと思っていましたよ」という返事があった。このような会話を交わしたことを私は長く忘れていたが,世代の問題を考えなければならないと思ったときに,思い出した。
 しかし考えてみれば,かの30年代前半世代と団塊の世代とでは体験したことがまるで違うはずである。30年代前半世代は1945年の敗戦を十歳を超える年齢で体験した。間違いなく戦争の記憶を持っている。そして物心のついた子供として敗戦後の日本社会の大転換を目の当たりに見ている。日本の歴史の中でも大転換期といえる時代を生きたこの世代に対して,私の世代は戦後生まれであり,子供として物心のつきはじめたときには高度成長期以前であり,日本全体の経済的な貧しさというものを記憶しているにしても,政治的社会的意識を持つようになる学生時代は高度成長期そのものであった。したがって、世代的な経験を基準にするならば,私の世代は30年代前半世代ではなく,私の世代よりも下の世代により親近感を覚えて当然であろう。
 そしてこのような世代間の親近感が研究の流れに大きな影響を与えているように見える。なぜこのようなことになったのか,その研究史への影響はどのようなものか,おいおい考えてみたいと思った。これがHP開設のひとつの理由である。



(2003年9月11日)

 今回,ホームページを立ち上げることとした。その理由の一部に,非自発的な理由のあることはたしかである。今年度,私は経済学部の広報委員長であり,同僚にたいしてホームページの更新によって情報発信するよう呼びかけている立場上,私自身がホームページを立ち上げざるを得なかった。
 しかし,ホームページを立ち上げる主要な理由は,自発的な理由である。インターネットの普及にともなって,私は手近な情報収集ツールとしてインターネット検索をしばしばおこなうようになった。名前を聞いたことのない研究者の論文を読んだときなどは,インターネットで検索し,その研究者がどのような研究をおこなっているのか,調べるのが常である。自分がインターネット検索の恩恵を受けていながら,自分自身は何も発信していないという薩摩守忠度(ただのり)はいけないのではないかとかねがね思っていた。それが自発的理由のひとつである。
 いま一つの自発的理由は,ホームページを立ち上げれば,意外と多くの人がアクセスするのではないか,と思われたことである。最近ホームページを立ち上げた友人の話では,一カ月に200件ほどのアクセスがあるという。私のホームページがそれだけのヒット数を記すことができるかどうかは分からないし,また経済学部の方針でアクセスカウンターが設置できないので実際に何件のヒットがあるのか知ることはできないが,情報発信としてやってみるだけの価値はあるのではないかと思った。
 そのほかにもいくつかの理由があるが,おいおい書いていきたい。
  ホームページを立ちあげる日は,9月11日と決めていた。その理由は言うまでもないだろう。9.11は間違いなく歴史に残る日である。しかしどのような日として歴史に残るのであろうか。「文明の衝突」が始まった日としてか,アングロサクソン国とOld Europeの対立が修復できないまでに進むきっかけとなった日としてか,アフリカ諸国や中南米諸国が忘れ去られてゆく出発点となった日としてか,アフガニスタンやイラクの泥沼のなかでアメリカ帝国が長期衰退していくその出発点としてか。
 それにしても,September 11 を「同時多発テロ」, war against terrorism を「テロとの戦い」と呼ぶ日本のマスコミの感覚はなんとかならないものだろうか。

 なお,私の名前は旧字体をつかっており,「野村正實」である。学生時代まで,新字体で「野村正実」と書いていたが,活字論文を発表するようになってからは一貫して旧字体で通している。「まさみ」というと,「実」と「美」がやや似ているという事情も加わって,「正美」と誤記されることが多かった。それもあって,活字論文には戸籍上の正式ネームである「野村正實」で通している。すると今度は,「正寛」と誤記される事態が生じた。「まさみ」という読み方に「正實」という漢字を与えるというあまり一般的ではない命名が招いたコストとしてやむを得ないと考えている。ただ,同姓同名がほとんどいないというメリットはある。「野村正実」ではなく,私にかんする表記は「野村正實」で統一して欲しい,と思っている。







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