「はしがき」(PDF file)



(2004年5月24日)

 当時、私が専攻した研究分野は、氏原さんにならって、労働問題研究と呼ばれていた。労働問題研究の1つの特色は、教科書が不在だということである。したがって労働問題研究を勉強する方法は、労働問題研究者によって書かれた調査報告書や論文を乱読する以外になかった。乱読の中から、おのずから労働問題研究の方法や水準が見えてくる、というわけである。なぜ教科書がないかというと、まず氏原さんが、教科書を書く能力に欠けていた。そもそも氏原さんは、自分の研究書1冊をとりまとめることさえできなかった。氏原さんの生前に『日本の労使関係』と『日本労働問題研究』の2冊が氏原さんの名前で出版されているが、これは氏原さんが自ら論文を編集したのではなく、氏原さんのもとで勉強したら若手研究者が氏原さんの論文を編集し、それを氏原さんが了承したのである。氏原さんは、個々の論文においてはきわめて鋭い論点を指摘したが、長編作家ではなかった。そうした氏原さんが、教科書を書くはずがなかった。
 氏原さんが教科書を書かないとすると、次の世代は戸塚世代になる。この世代は、私が大学院生の頃、40代前半であった。そしてことあるごとに、研究者であることを強調していた。研究者は研究論文を書くべきであり、教科書ごときを書いてはならない、という雰囲気であった。本人たちからそのような言葉を明確に聞いたわけではないが、われわれ院生に対しては、そういう雰囲気を強く感じさせた。研究者は教科書を書いてはいけないのだ、と私は思った。この時の影響が残っているのか、私の世代で教科書を書いたものはまだ誰もいない。
 このように言えば、次のような反応が返ってくるだろう。大河内さんは社会政策について教科書を書いているし、『労働問題』というタイトルの教科書も出しているではないか。大河内さんが古いというならば、隅谷三喜男[1969]『労働経済論』筑摩書房は体系的で素晴らしい教科書ではないか、というような反応である。
 大河内さんの教科書についていえば、たしかに古すぎた。戦後の労働調査が明らかにしたファクツがほとんど反映されていなかった。また、大河内社会政策論は、いわゆる社会政策本質論争において、ボロボロになった感がある。氏原さんの労働問題研究の提唱は、社会政策本質論争に対する厳しい批判であり、氏原労働問題研究を受け入れているわれわれが、大河内社会政策論に魅力を感じるはずがなかった。
 隅谷さんの教科書については、私を含め、院生が読んでいたことは間違いない。しかし、この本の内容について友人と議論した記憶はまったくない。隅谷さんは、われわれ院生にとっては、労働問題研究の第一人者隅谷、という一般社会における評価とはまったく異なって、実感としては、「よその人」という感じであった。隅谷さんがなぜ「よその人」になってしまったのかは、労働問題研究の内容に深くかかわっている、と今の私は思っている。隅谷さんの著作集もでたことでもあり、本格的な隅谷論をいつかおこなう必要があるだろう。今ここでは、このような大きな問題は論じない。ただ、隅谷さんの賃労働の理論がいわゆる労働問題研究にとって異質だったことを指摘しておくにとどめる。
 ともかく、われわれ院生にとっては、労働問題研究とは氏原正治郎であり、その流れをくんだ労働研究を意味していた。こうした意味における労働問題研究には、教科書が不在であった。指導教官も不在、教科書も不在、こういう状況の中で私は、乱読することによって労働問題研究とは何であるのか、自分なりに納得する以外になかった。
 こうした状況の中で、私にとって勉強となったのは、友人との雑談と労働問題研究会であった。
 院生時代、毎日1度は、友人たちと喫茶店で雑談した。雑談は文字通りの雑談もあれば、研究に関する話もあった。誰かが、「○○さんの今度の論文は面白いか?」と聞けば、すでに読んでいる者が、あれはダメだ、とか、すごい論文だ、とか、院生にありがちなきわめて率直な評価を返事した。あるいはその評価をめぐって議論がおこなわれた。水増し入学で院生の数が多かったため、いろんな分野の院生がいた。こうした雑談を通じて、どういう論文が現在の水準を作っている論文であり、その内容がどういうものであるのか、労せずして理解した。その当時は、こうした雑談がきわめて貴重なものであることに気づいていなかった。しかし後から振り返ってみれば、こうした雑談によって私は多くのことを学んでいた。



(2004年4月22日)

 指導教官制の廃止ということは、一般的な傾向ではなかった。同時期の他大学の経済大学院についていえば、京大は東大とまったく正反対の方向にあった。指導教官と大学院生との関係はきわめて濃密で、個々の大学院生にとっては指導教官との関係のみが全世界であるかのような、そんな印象であった。一橋は、京大ほどではないが、やはり指導教官との関係は密であった。
 私が在学した当時の経済大学院についてもう一つ特徴的であったのは、単位の取得が非常に楽であった、ということが挙げられる。たしか修士課程で30単位、博士課程で20単位を取らなければならないという規則になっていたが、自主研究という制度があった。院生だけで自主的な研究会を組織し、年度の終わりに、自主研究をおこなったと申告すれば、ある一定の範囲内で単位が認められた。この制度のおかげで、教官のおこなう授業をとる必要は規則上の30単位ないし20単位よりもずっと少なくてすんだ。もちろん、自主研究制度を利用しないで、すべて教官の授業で単位を取ることも可能であった。自主研究で何単位を取るのかは、院生個々人にまかされていた。
 私は教官の授業は、必要最小限しかとらなかった。『ドイツ労資関係史論』を公刊した後、私は兵藤さんに、この本で学位申請をしたいと伝えた。兵藤さんはすぐに承知してくれたが、論文審査の主査については、労働問題研究の教官と話し合って決めるから、後で連絡する、とのことであった。そしてその結果、主査は中西さんになった。中西さんや兵藤さんにこのように大きなお世話になっているが、じつは私は院生時代に、中西さんにも兵藤さんにも、授業を受けたことがない。
 余談を記しておけば、私の学位審査は、だいぶ変わったものであった。口頭試問の時、主査の中西さんが、いかにも中西さんらしく、野村の研究のここがダメあそこがダメ、とダメな点を列挙し、要するに労使関係論が分かっていないのではないか、という指摘をかなりの時間をかけておこなった。通常であれば、その指摘に対して私が反論しなければならない。ところが、中西さんの批判があまりにも厳しいものであったせいか、他の審査員が中西さんに反論し、それをまた中西さんが批判する、ということで、肝心の私はほんのわずか発言しただけで、1時間余の口頭試問は終わってしまった。私が学位を申請した1981年当時は、社会科学系では申請者数がきわめて少なく、審査員も5人であった。そのため口頭試問では厳しいやり取りがあると覚悟していたが、まったくの拍子抜けであった。付け加えておけば、中西さんが執筆した論文審査結果は、口頭試問の時のような、あれもダメこれもダメという書き方ではなく、論文審査結果報告によくあるような、基本的には意義ある研究であるが、まだ残された問題点もある、という書き方になっていた。当然とも言える。すべてダメ、という論文審査報告であれば、そのような論文を学位論文と認定できない、という批判が出るのは必至であるし、そのような論文の申請取り下げをさせなかった主査の責任が問われるからである。
 話をもとに戻すと、指導教官制が廃止され、自主研究である程度の単位が取れる、というような状況においては、自分で自分なりの勉強をしていく以外に、研究力量を身につける道はなかった。とはいえ、授業という形ではないインフラストラクチャーがあった。ひとつは院生同士の雑談であり、いま一つは研究会であった。


(2004年3月25日)

 私は1971年に東大大学院に進学した。東大闘争が終了した後であり、経済大学院のあり方が、それまでと大きく変わっていた。しばしば、60年代後半の大学闘争によって大学のあり方はまったく変わらなかった、といわれるが、経済大学院にかんして言えば、大きな影響があった。そして、経済大学院で学んだ私と同世代の研究者にとって、学部時代における大学闘争、経済大学院における教育研究のあり方が、研究内容や研究姿勢に大きな影響を与えたのではないかと私は考えている。
 東大闘争前の経済大学院は、次のようなものであった。毎年の入学者数は20人強で、修士課程2年間で相当水準の高い修士論文をまとめる。大半は修士論文審査にパスして博士課程に進学するが、何人かはふるい落とされる。博士課程においては、修士論文を元にして数本の活字論文を書きあげる。当時はまだ各大学からの公募が少なかったため、コネ、とりわけ指導教官のコネによる就職が主流となっていた。要するに、大学院の入学者数を抑える少数精鋭、指導教官によるっがっちりした徒弟教育、修士論文による早期論文執筆、指導教官による大学への就職斡旋、という制度であった。
 しかし東大闘争の中で、こうした経済大学院のあり方に対して、院生が激しく批判した。経済大学院は、東大のなかで院生と教官がもっとも厳しく対立した大学院であった。「東大解体」の理論を打ち出したのは、経済大学院の院生であると見られていた。経済大学院で激しい闘争がおこなわれたのは、もちろん「帝国主義大学解体」という理論を信じたことが一半の理由であるが、闘争のパッションは、もっと日常的なところにあったと思われる。そのことを証明するのが、経済大学院の闘争が終結するに際して、確認書が交わされたことである。その内容は、指導教官制の廃止と大学院の5カ年一貫制を主要な柱としていた。5カ年一貫制とは、いったん修士課程に入学すれば、修士論文によってチェックされることなく全員が博士課程に進学できる、ということである。このような確認書が交わされたことは、指導教官による日常的な締めつけ、および修士論文の重圧に院生が強い圧迫感を覚えていたことを示している。指導教官による締めつけについては、私はたとえば次のような話を聞いた。指導教官制の下では、院生は単位を取る時間割について、指導教官の印鑑を必要とした。ところが○○(某教官)は、ある院生の時間割を見て、その指導教官の嫌いな人物の演習が入っていることを見つけて、その演習を削除させた。こうした横暴なことを許さないためにも指導教官制の廃止が必要であった、というのである。私は、このような話を聞いて、私より上の世代がなんに対して怒っていたのか、納得した。
 ともかく、東大闘争の時の確認書によって、指導教官制は廃止され、修士課程と博士課程の5カ年一貫性が実現した。私が入学した1971年は、さらに加えて、例年と違うことがあった。四十数人が入学したのである。例年の倍の人数が入学したことになる。1970年の修士課程入学者も四十数人であったが、これは、その前年度が東大闘争のために入試がなく、2年分をいっぺんに採用した形になっているので、異例とはいえない。つまり1971年入学者は、これまでの大学院のあり方とは正反対の状態に置かれることになった。入口での少数精鋭→水増し入学、修士論文による締めつけ→修士論文の完全な形骸化、指導教官との密接な結びつき→指導教官制の廃止、という具合である。
 ついでに言っておけば、確認書の解釈をめぐって院生自治会側と当局との間で食い違いが生じ、1972年に院生自治会が無期限ストライキ、教官研究室封鎖に入った。無期ストは4カ月くらい続き終わったが、このストのために1971年入学生の修士修了、博士課程進学が遅れ、1972年7月博士課程進学となった。履歴書で、このような中途半端な進学時期となっていることについて、これまで私は何度か質問されたが、このような事情からである。
 修士論文がなく、指導教官もいないという環境は、たしかに自由ではあるが、同時に、研究者になっていくというプロセスを院生自身が全面的に負わなければならないことも意味していた。こうした環境と、おまけに水増し入学ということもあったせいか、私と同期の1971年入学生で研究者として就職したのは、四十数人のうち半分以下であったと思われる。いつしか大学院に来なくなり、研究から離れていったのである。「○○は最近見ないけれど、どうしているんだ」、「彼はもう塾に就職していて、勉強は放棄しているみたいだよ」、というような会話を何度かした記憶がある。
 私にとっては、こうしたvogelfreiな環境は、居心地のいいものであった。もし大学院が伝統的な形で運営されていたならば、私の研究内容は私が実際にたどった研究の道とは相当に異なったのではないかと、私は思っている。



(2004年2月24日)

 本書には「あとがき」がない。「はしがき」が「あとがき」に相当している。しかしこのHPでは「あとがきのあとがき」で統一しているため、ここでも、「あとがきのあとがき」と表示しておく。
 本書は私が公刊した最初の本である。1980年の出版で、私は32歳であった。社会科学系の本であれば、32歳での単著出版は早いと思われている。しかし出版した当時、私は自分が早くして出版したとは意識していなかった。とにかく一つのテーマについて区切りをつけたかった。
 驚いたことに、本書はまだ絶版になっていないようである。御茶の水書房は、まだこの本が売れると見込んでいるのであろうか。
 ずいぶん以前から、研究書の「はしがき」や「あとがき」に、「研究書の出版が困難な今日、このような研究書を出版していただいた○○出版社に心からお礼を申し上げたい」というふうな文章をしばしば見うける。実際に調べたわけではないので、たんなる印象にすぎないが、1970年代からこうした文章が頻繁に登場しはじめたような気がしている。私がこの本を出版した1980年には、当然、出版事情は厳しかった。まして海のものとも山のものとも分からない若造(研究者の間では、30そこそこの研究者は若造である)の怪しげな本を喜んでだしてくれそうな出版社があるとは思えなかった。どうしようかと考えていた時、私の原稿がほぼまとまったという話を聞いた栗田健さんが、御茶の水書房でよければ紹介する、と言ってくれた。栗田さんの紹介ということなので御茶の水書房は私の本の出版を引き受けた。しかし、しぶしぶ引き受けたことが露骨で、いわゆる出版助成金、正式名称は文部省研究成果刊行費をとることが絶対条件とされた。1979年に出版助成金を申請し、幸いも翌年に出版助成金が交付されることになった。かくして1980年に刊行された。
 出来上がった本を見て驚いたのは価格設定だった。なんと6000円である。339ページの本が6000円というのは、今の水準からみても高いし、まして四半世紀前では非常に高いものであった。実際に出版されるまで、私は価格設定を知らなかった。この価格設定は、御茶の水書房の私の本への評価を明白に表していた。要するに、売れる見込みがまったくない、ということである。6000円の価格であれば、すでに出版助成金によって製造原価の3分の1をカバーしているので、400部も売れればペイする、という計算のように思えた。そして御茶ノ水書房であれば、その程度の部数はなんとかさばける、と踏んだのであろう。しかし私にしてみれば、ただでさえ売れる見込みのない本が、きわめて高い価格設定のために、ますます売れなくなるであろう、と思えた。
 ところが、出版社にとっても私にとってもきわめて意外なことに、好調な売れ行きを示した。いったい、誰が買ったのだろう。書評が社会政策学会年報、日本労働協会雑誌、社会経済史学、土地制度史学、歴史学研究などに掲載されたところから、労働研究と歴史研究の双方から関心を持ってもらえたことが、意外な売れ行きにつながったのではないかと思える。労働関係図書優秀賞を受賞したことも売り上げにつながったのかもしれない。おかげで、御茶の水書房の私にたいする態度は相当に変化した。その当時、御茶の水書房は「新刊著書発表会」なるものを開いていた。御茶ノ水書房の新刊本のなかから御茶の水書房の気に入った本を選び、著者、コメンテーター、それにその本のテーマに関係のありそうな研究者を集めて研究会を開き、その後で簡単なパーティーをおこなうというものであった。出版社主催の一種の出版記念パーティーであった。御茶の水書房は私の本をこの「新刊著書発表会」の対象にしてくれた。出版社主催にせよ、私的な形にせよ、私の出版記念パーティーは、この時のみである。
 とにかく、御茶の水書房に迷惑をかけることなく、最初の本を出版できた。こうした幸運があったせいか、その後、私は出版については恵まれた。原稿がまとまって出版社に連絡すると、「すぐ原稿を送ってください。ただちに作業に入ります」と言っていただいたり、あるいは、「こういうテーマで原稿を書いてください」と勧められることもあった。御茶の水書房をはじめ、これまで私の本を出して下さった出版社には、心から感謝している。
 本書の執筆は、大学院生時代とその直後である。この本をまとめる過程を思い起こすことは、私にとって、学生から研究者になっていくプロセスを思い出すことである。すぐれた研究者の自伝は、その研究者の生きた時代の精神史、思想史でもある。私のような凡庸な研究者の昔話には、もちろんそのような価値はない。しかし、研究の背景となっている社会的雰囲気を伝えることはできるのではないか。そして社会科学研究においては、そうした研究の背景となっている社会的雰囲気を理解することが、研究史の理解には必要ではないか。そのような考えから、私はこれから、今から四半世紀前の研究者養成、研究を背景となる社会的雰囲気について、少しずつ書き記していきたいと思っている。
 とはいえ、私は日記をつけるいう習慣がなく、またいくつか仕事をかかえているため、資料を確かめて書く時間的余裕がない。したがってこのHPで書くことは、もっぱら私の記憶にもとづく不正確なものである。そのことをまず断っておく。